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「現成公案」メモ⑩

以下の節では、仏法における生と死について語られる。
この節については以前にも「前後際断」という言葉を中心に書いたが、あらためて書いてみたいと思う。

以下、本文

 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

焚き木は燃え尽きて灰となる。元の焚き木に戻ることは決してない。そうであるが、灰は後、薪は先(前)と考えてはならない。

燃えて灰となったものが元に戻ることは決してないというのは、単純な物理法則(エントロピー)である。この法則が「時間の矢」つまり不可逆的な直線的時間の根拠となっており、現代においても世法を規定する法則である。だから当然、世法では時間的に「薪が先」で「灰が後」であるというふうに考える。だが、仏法から見る場合、そのように直線的な時間軸として前後を繋いではならないと道元禅師は言う。
(※「さらに~あらず」というのは「決して~ない」という強調の否定文。「しかあるを」〔然るを〕は逆接の接続詞)

薪と灰

そもそも、なぜ薪と灰なのか。『法華経』(方便品)に次のような記述がある。

「自ら無上道を成じて 広く無数の衆を度し 無余涅槃に入ること 薪尽きてゆるが如くなりき」(『真訓対照 法華三部経』東方出版)

仏教における火は煩悩や無常を表わし、その火が完全に滅したことを涅槃(ニルヴァーナ)という。
だから、ここでの「薪」は衆生、「灰」は仏のことでもある(死灰である遺骨を舎利として祀るのもこの意味から来ているのだろう)。

同時に薪は生、灰は死を表わしている。したがって薪と灰には二重の意味(生と死、衆生と仏)が織り込まれている。だが、ここでの「生と死」は、世法における生と死ではない。つまり生老病死という時間的な現象としての生と死ではなく、仏法から見た「生と死」、および「衆生と諸仏」の関係を言っている。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

知るべきである。薪は薪の法位(ダルマとしてのありかた)において存在が定まっており、先があり後がある。前後があるといっても、前後のきわは断たれている。灰は灰の法位(ダルマとしてのありかた)において存在が定まっており、後があり先がある。

法住法位

「法位に住して」というのは、存在は法(ダルマ)という不変のありかたにおいて定まっているということ。これも『法華経』(方便品)にある「法住法位」という言葉から来ている。

この法は法位に住して 世間の相常住なり」〔是法住法位、世間相常住〕(同上)。

仏が悟ったのは存在の本当のすがた(=理法)である。仏の悟った理法、すなわち仏法から見れば、衆生のもろもろのすがた(世間の相)というのは、法(ダルマ)という不変のありかたとして存在しているのであって、その意味においては常住である。

その法(ダルマ)というありかたにおいて、「薪」(生・衆生)には先があり後があり、同じく「灰」(死・諸仏)にも後があり先がある、という。

「先」とは過去のことであり、「後」とは未来のことである。つまり三世(過去・現在・未来)のことを言っている。しかし、世法における「過去→現在→未来」という直線的な時間のことではない。仏法における三世は、永遠における〈今〉(=現在)というありかたに過去も未来も同時に含まれているということである。つまり過去と未来は〈今〉(=現在)において一如である。

薪(衆生)も灰(諸仏)も、三世(過去・現在・未来)というありかたで存在している。つまり法(ダルマ)として常住しているのである。

このように、仏法から見た「先」(過去)と「後」(未来)は時間的な前後関係にはないというのが「前後際断」という意味である。

それは薪と灰の関係自体においても同じである。衆生(薪)が修行をして諸仏(灰)になる・・のではない。仏道修行はそのような時間軸においてなされるのではない。つまり迷いを捨てて悟りを未来に追いかけるようなものではない。

迷と悟、生と死、衆生と諸仏、過去と未来は、(世法の認識形式である)時間的な相待関係、空間的な相対関係にはない。つまり一如であるということである。どれもが法(ダルマ)としての不変のありかたである。これが「諸法の仏法なる時節」である。

かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。

あの焚き木が燃えて灰になったあとに、薪となることは決してないように、人が死んだあとに生となることは決してない。

これは前節で批判された外道の教え(=常見)を踏まえたものだろう。人が死んだのち、同じ個別の霊魂(自我)が異なる肉体を持って生まれ変わってくるのではない(しかし、だからといって死んだら無に帰するという唯物論的な考え〔=断見〕も仏教ではない。どちらも時間と空間の形式に拘束された考えである)。

しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。

そうであるが、生が死になると言わないのが、仏法の定まれるならいである。このゆえに「不生」という。死が生にならない、それが法輪の定まれる仏の転じ方(説法)である。このゆえに「不滅」という。

薪と灰は時間的な前後関係にはない。したがって、生が死になり、死が生になるのではない。「不」というのは、ただの否定ではなく、絶対の否定である。絶対の否定は「不是」(空)である。それは絶対の肯定と表裏一体(一如)である。

つまり、ここで言われる薪と灰(生と死)は、絶対の否定=「不是」である「空」(不生不滅)に裏打ちされた、絶対の肯定としての「生」と「死」である。だから「不生」「不滅」という。

法(ダルマ)は空性である。生が死になり、死が生になるのではなく、空性としての法(ダルマ)が「生」となり「死」となっているのである。よって「生」と「死」は一如である。一如であるから「生」は「死」を妨げず、「死」は「生」を妨げない。

生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

「生」も一時の位である。「死」も一時の位である。たとえるなら、冬と春のようである。冬が春になると思わず、春が夏になると言わないのである。

「一時の位」とは法(ダルマ)としての位である。だから、流れる時間における「一時いっとき」という意味ではない。絶対の「一時」である。

不生不滅の「空」が「生」というありかたをするときは、「死」は裏に隠れるため、現成するのは「生」のみである(それを「不生」という)。その「生」は裏の「死」と表裏一体である。
同じように、不生不滅の「空」が「死」というありかたをするときは、「生」は裏に隠れるため、現成するのは「死」のみである(それを「不滅」という)。その「死」は裏の「生」と表裏一体である。

どちらも一時の位であるとはそういう意味である。

春夏秋冬(発心・修行・菩提・涅槃)

春夏秋冬は「発心・修行・菩提・涅槃」に対応している(「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さへてすずしかりけり」)。

仏法における「発心・修行・菩提・涅槃」という運動は、世法の「生→老→病→死」というような直線的時間ではない。垂直的な次元における運動である。

だから冬(涅槃)が春(発心)になるのではないし、春(発心)が夏(修行)になるのではない。すべては同時である

つまり、春(発心)のときは春の現成であり「修行・菩提・涅槃」は裏に隠れているが、一如である。それは発心のときにすでに「修行・菩提・涅槃」も潜在的に含まれているということである。

同じように、夏(修行)のときは夏の現成であり「発心・菩提・涅槃」は裏に隠れているが、一如である。秋(菩提)も同じで、秋のときは秋の現成であり「発心・修行・涅槃」は裏に隠れているが、それで一如である。

冬(涅槃)のときは冬の現成であり「発心・修行・菩提」は裏に隠れているが、一如である。

仏の涅槃に「発心・修行・菩提」が含まれているからこそ、衆生の「発心」「修行」「菩提」が現成するのである。

だからといって、涅槃が起点、もしくは終点であるということは言えない。そうではなく円環的な運動である。


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