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「虚空」について

「虚空」とは

 「虚空」はサンスクリッド語でアーカーシャといいます。それはただの虚無や実体のない空虚なものという意味ではありません。
 ヴェーダーンタ哲学によれば、形ある一切のものはこのアーカーシャ(虚空)から生まれたといいます(現代の量子論的に言うならば量子真空のことです)。宇宙の創造の初めにはこのアーカーシャ(虚空)だけがあり、そこにプラーナの力(=生命力)が働くことで、形ある宇宙が創造されました。

 ちなみに、ルドルフ・シュタイナーやエドガー・ケイシーなどの霊視能力者はそのアーカーシャ(虚空)にある膨大な宇宙的なデータを読むことができるといいます(いわゆる「アカシック・レコード」というものです)。
 今、現象として現れているこの宇宙はアーカーシャ(虚空)から展開しています。したがって現象を現象たらしめているデータ(記憶)はすでにそこにすべて収められています。それは文字どおり宇宙の初めから終わりまでのすべてのデータです。それが「虚空」というものです。

 では、このような「虚空」について禅仏教ではどのように言われているのでしょうか。


「虚空」を捉まえる

 道元禅師は『正法眼蔵』「虚空」巻の中で、「虚空」を捉まえることが禅における修行なのだと言っています(「仏々祖々の功夫辨道、発心修証、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし」)。
 同巻の中で石鞏(しゃくきょう)慧蔵禅師と西堂智蔵禅師による問答を紹介していますので、以下、現代語にしてみます。

 石鞏禅師が兄弟弟子である西堂禅師に向かって「お前はそもそも虚空を捉まえるということがわかっているのか」と問いました。それに対し西堂は「わかっている」と答えます。
 「お前はどのように虚空を捉まえるのか」と石鞏が聞くと、西堂は自分の手で目の前の何もない空間をサッと捉まえました。石鞏は「お前は虚空を捉まえるということがわかっていない」と言います。言われた西堂が「では兄さんはどのよう虚空を捉まえるのか」と問いました。
 すると、いきなり石鞏は西堂の鼻孔(鼻の穴)をつかんで強くグイッと引っ張りました。引っ張られた西堂があまりの痛さに「イタタタ! 殺す気かい、そんなに強く引っ張ったら鼻がもげてしまうよ!」と言うと、石鞏は言いました、「このようにして初めて虚空を捉まえることができるんだ」。

 石鞏禅師は虚空を捉まえるのに、なぜこんな荒っぽいことをしたのでしょうか。
 道元禅師は石鞏禅師の「お前はそもそも虚空を捉まえるということがわかっているのか」という最初の問いを「なんぢまた通身是手眼なりやと問著するなり」と説明しています。
 「通身是手眼」とは自己(=通身)が観音の手眼のはたらきそのものであるということですが、そのことをお前は本当にわかっているのか、という問いだということです。
(「通身是手眼」については以前の記事でも触れましたのでご参照していただけたら幸いです)

自己としての「鼻孔」

 ところで、なぜ「鼻」なのでしょうか。
 禅では、「鼻孔」(鼻の穴)は「眼睛」(目玉)や「頂寧」(頭)や「拳頭」(握り拳)などと同じく修行者の大事な面目を表します。とくに鼻はプラーナ(=気息)を直接つかさどっている大事な器官です。プラーナは先ほども書いたように宇宙の生命力そのものであり、それが鼻を通して呼吸というあり方で表現されています。ですから呼吸は坐禅や瞑想で最も大事とされます。呼吸によってわれわれは自己の本質に直接ふれているのです。
 「虚空」とは空虚で実体のないものではなく、生命の働きであるこの鼻(=自己)のことです。「虚空」がプラーナとして活動しているさまは、まさに観音の手眼のはたらきであり、それが自己のすがたです。
 ですが、この問答ではそのような説明も余計かもしれません。
 西堂禅師は鼻を強く引っ張られましたが、実際、「イタタタ!」の時は「イタタタ!」という事実のみで、その時、自分も相手もいません。その「イタタタ!」が「虚空」の現成そのものです。荒っぽいですが、それが石鞏禅師による「虚空」=自己をじかに捉まえるやり方だったのでしょう。自己の身心を離れて虚空を頭で捉えようとしてもただの妄想に陥るだけです。
 仏教では、シュタイナーやケイシーのように霊視によって虚空のデータを読むようなことはしませんが、日常における自己の身心を通して虚空としての自己を捉えようとするあたりが、いかにも禅らしいと思います。

 また道元禅師は石鞏禅師が西堂禅師の鼻孔を引っ張ったことについて面白いことを言っています。

「しばらく参学すべし、西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり。あるいは鼻孔拽石鞏の道現成あり。しかもかくのごとくなりといへども、虚空一団、磕著築著なり。」(『正法眼蔵』「虚空」巻)

訳:「しばらく参学しなさい。西堂の鼻孔(鼻の穴)に石鞏の全身が入ってしまったのだ。あるいは鼻孔自身が石鞏を引っ張り込んだと言ってもよい。しかもこのようであると言えるとしても、虚空というひとつの存在がガチャガチャと音を立てているだけだ」

 石鞏禅師も西堂禅師も、ともに一箇の虚空です。つまり、自己が自己を引っ張っている、虚空が虚空を引っ張っているのだと言えます。虚空という実相からすれば、引っ張る者も引っ張られる者もありません。誰が何をし、何を言おうが、すべては一箇の虚空ですから、虚空が音を立てて活発に動き回っているようなものです。

 ですから、道元禅師は石鞏禅師に対して「西堂の鼻を捉まえたが、本当に虚空を捉まえるというのなら、みずから自分の鼻を捉まえてみろ」(「いはゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉虚空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし」)と言っています。これも道元禅師らしい面白いコメントだなと思います。
 鼻とは自己であり、虚空の具体的なすがたです。その本当の自己をつかまえろということです。

「虚空」が経を講ず

 ところで、虚空というと『般若心経』における「空」を思い浮かべます。同巻では馬祖禅師と西山亮座主の以下のやり取りを紹介しています。

 馬祖禅師のもとに参じていた亮座主がお経を講じていると、馬祖禅師が「何を講じているのか」と尋ねます。「心経(般若心経)です」と答えると、「それは何でもって講じているのか」と聞かれます。
 亮座主は当たり前のように「心でもって講じています」と答えました。すると馬祖禅師は「心は巧みな俳優(工技者)で、意はその相手役(和技者)のようなものだ。六識はそれらの伴侶として働くが、そんなものでどうやって経を講じることができるというのだ?」と言いました。
 ちなみに、ここでの「心」「意」「六識」とはそれぞれ唯識でいう「アラヤ識」「マナ識」「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」のことです。それら心の作用によって迷いの世界が生み出されているというのに、どうしてそのような心でもって経(=自己の真相)を講じることができるのか、ということです。
 そう言われた亮座主は「心では講じることができないというのなら、心のないカラッポな状態(=虚空)ではなおさら何も講じることができないのではないですか」と返すと、馬祖禅師は「かえって虚空こそ経を講じることができるのだ」と言いました。(亮座主は「虚空」を何もない空虚なものという意味で捉えていますが、馬祖禅師のいう「虚空」はまるで意味が違います)
 亮座主は袖を払って去ろうとします。その時、馬祖禅師は「座主!」と呼びかけました。亮座主が振り向いた瞬間、馬祖禅師が言いました、「生まれてから老いて死に至るまで、ただこれ這箇(今ここ)だけだぞ」。それを聞いて亮座主はハッと気がつきました。
 
 この問答について道元禅師は言います。

「仏祖はともに講経者なり。講経はかならず虚空なり。虚空にあらざれば一経をも講ずることをえざるなり」(同上)

 仏祖はみな経を講じる者である。しかし経を講じるのは必ず虚空なのだといいます。仏祖はみな虚空である自己を十全に生きているということでしょう。だから経を講じることができるのだと。逆に言うと、虚空を十全に生きていないものには経を講じることはできないということです(実際は虚空を生きていないものなど存在しないのですが……)。
 ちなみに、ここでいう「経」(スートラ)とは文字で書かれたお経のことではなく自己の真相のことです。なので、経文に書いてある「空」をいくら心を砕いて頭で理解しようとしても無理なのです。『般若心経』に出てくる「空」は、仏教哲学などで言われる「すべての現象は縁起で成り立っている。だから空だ」などというような理屈によって説明できるものではありません。虚空とは「今、ここ」という自己の事実であり、生も死もまるごと含んだものです。その虚空が活動する「今、ここ」のありようが本当の意味での「空」であるので、学問として頭で学ぶものではないのです。
 「座主!」が「空」であり自己である、いや、今目の前に現れているパソコン(スマホ)の文字が「空」であり自己である、ということです。

「虚空」が般若を談ず

 最後に如浄禅師の「風鈴の頌」を紹介します。この頌は「虚空」巻でも一部取り上げられていますが、般若経典を扱った「摩訶般若波羅蜜」巻でも取り上げられています。

渾身口に似て虚空に掛り
東西南北の風を問わず
一等、他の為に般若を談ず
滴丁東了滴丁東

 中空にぶら下がった風鈴が風を受けるままに揺れながら、どんな風に対しても平等に音を鳴らしているすがたは、まさに虚空の中で自由自在に仏(観音)が法を説いている様子そのものである、という内容を歌ったものです。
 道元禅師はこの頌に対し、「虚空の渾身は虚空にかかれり」(「虚空」巻)と言っています。ここでの「風鈴」は虚空としての本来の自己です。それは虚空の真っただ中で法を説いている、つまり般若を談じているのですが、とりわけ「渾身」という言葉が重要です。
 
 道元禅師は「摩訶般若波羅蜜」巻の冒頭でも、『般若心経』の冒頭部分に「渾身」という言葉を付け加えて引用しています。

「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」

 この「渾身」は観自在菩薩(観音さま)の渾身ですが、われわれの身心(五蘊)のはたらきそのものでもあります。したがって「渾身の照見五蘊皆空なり」とは、この身心および万法すべてが一箇の虚空であるということです。
 「尽十方界是箇真実人体」(宇宙のまるごとが一箇の真実の人体)であり、「生死去来真実人体」(生と死、過去未来すべてが真実の人体)である、それが渾身の虚空が活動しているすがたです。生きても虚空、死んでも虚空、息をすること、歩くこと、食べること、笑うこと、ムカつくこと、悲しむこと、自分の様子のことごとくが虚空のあらわれです。つまり虚空は〈いのち〉そのものです。

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