見出し画像

「時」について①(光としての自己)

 昔から時間のことを「時光」や「光陰」と呼ぶ。時間の過ぎ去る速さを光の速さに例えたものだろうが、「時光のなはだしく速やかなる」とか「光陰虚しく渡ることなかれ」と言われたりもする。
 しかし、「時」が光であるとは、かなり深い意味があるのではないだろうか。

 周知のとおり、われわれ凡夫の世界は「生老病死」という直線的な時間が支配する世界である。それに対し、仏道の世界は「発心・修行・菩提・涅槃」という垂直的な運動であるというようなことを以前、書いた。人は、生老病死する自我としての「私」から本来の自己に目覚めること(=発心)によって、「発心・修行・菩提・涅槃」という仏道の運動に参入する。それは〈永遠の仏〉の運動である。
 ここでは分かりやすくするために、凡夫の世界(=世法)における直線的な時間と区別して、仏道(=仏法)における時間を「垂直的な時間」すなわち「時」と呼ぶことにしたい(西洋では古来から前者を「クロノス」、後者を「カイロス」呼んでいる)。

 世法における「直線的な時間」とは、自我としての「私」が生きるこの社会を支配している、あまりになじみ深いものである(時計、日付、歴史 etc)。その時間の中に生まれた「私」は、生まれた瞬間から死に向かって走らされ(生→老→病→死)、その苦しみの道程において、他者たちと生きる空間の中でさらに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」といった苦しみに苛まれる。
 こうした誰もが日々、痛いほど感じている「直線的な時間」に対し、仏法における時間、「垂直的な時間」である「時」とはどういうものか。

 ここで、やや古くさい比喩になるけれども、映画のしくみを通して考えてみる。

 映画の上映は、真っ白なスクリーン上に映写機(プロジェクター)から光が投射されることで成り立つ。ただそれだけでは真っ白なスクリーンしか存在しないが、映写機(プロジェクター)に映像の記録されたフィルム(昔ならば1秒間に24コマの写真が連なるもの。今ならデジタルのデータ)がセットされ、フィルムが回転することで、光に透過された映像が動画としてスクリーン上に展開する(ということは誰でも知っている)。
 映画の上映をわれわれの世界の構造として考えてみるならば、一方向にひたすら回転するフィルムの運動が「直線的な時間」(クロノス)であり、そのスクリーンに映写された映像がわれわれの世界である。ここでいう「フィルム」とは、仏教的に言うならば、阿頼耶識であり、無限の過去から反復され積み重ねられた業(カルマ)の記憶の焼き付けられたもので、暴流のごとく回転をやめない。つまり回転するフィルムとは輪廻そのものである。そして、そのフィルム(阿頼耶識)から投影されたスクリーン上の世界における登場人物として、知らずに物語を演じているのが自我としての「私」である。
 それに対し、スクリーン(世界)に投射される光そのもの、それが「垂直的な時間」すなわち「時」である(まさに「時」が光である)。この光はフィルムの回転すなわち「直線的な時間」とは関係なく、永遠に不動の「今」として投射され続けている。それはまさに垂直的な運動である。
 そして本来の自己(私)はスクリーン上ではなく、光の側にいる。つまり生まれもしないし、死にもしない、不生不滅なる空の世界、それが「永遠の今」であり、本来の自己(私)がいる場所である。生まれたり死んだりするのは「直線的な時間」の展開するスクリーン上での話であり、光(空の世界)は最初からそうした時間を離脱している。
 映画は世界の構造の引き写しである。19世紀末に映画はリュミエール兄弟によって発明されたことになっているが、おそらくその何万年も前から、人類は世界(歴史)という映画を作り続けているのである。

 聖書には、初めに神は「光あれ」と言われ、混沌とした地に世界を創造されたとある。そして創造したすべてを「よし」とされ、7日目に深い休息(沈黙)に入られた。
 だが、神により創造され、その存在を「よし」とされた人間は、自分自身とこの世界をそのまま「よし」としなかった。そこから始まったのが、自我のバカ騒ぎによる歴史という名の映画である。そのフィルムは常にフルスピードで回転してやまず、回転しながら飽くことなく今でも作られ続けている。その回転の動力となっているのが人間の業(カルマ)であり、それはこの「私」の業である。「私」の業が現在も映画を作り続けているのである。その業を浄化する方法は、映画から出て、つまりは自我から離れて、光の側から自らの業を照らすことである。それが仏教の「気づき」の修行であり、無常を観ずるということである。
 したがって、(この歴史という名の)映画の真の発明者はリュミエール兄弟ではなく、アダムであるが、それは遠い人類の祖先などではなく自我として生きる今現在の「私」のことである。そして「私」は映画製作者でもあり主演者でもある、という厄介者である(クリント・イーストウッドならいざ知らず、「私」にはロクでもない「映画」しか作ることができない)。

 最後に、冒頭に挙げた「光陰虚しく渡ることなかれ」の「光陰」とは何を意味するのか。光(=光明)は実在であるから、空(不生不滅)という意味である。その空という実在の陰(=影)として色(=現象界)が展開している。そう捉えることができる。つまり、実在の影に過ぎない現象界(無常の世界)を実体だと勘違いして虚しく渡るなよ、という意味が上記の言葉の本来の意味ではないかと(やや強引な推量ではあるが)思う。
 いずれにせよ、この現象界を照らしている光明(=実在)が本当の時間すなわち「時」と言うことができる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?