「山水経」メモ⑤
「未朕兆の正当時、および空王那畔より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、撿点すべし。」
《時間の発生する以前の〈いのち〉そのものである時、および過去空劫に出現した空王仏の時代(=久遠の過去)より、「進歩」「退歩」というありかたで「青山」(法身)の歩みは一時もやんだことがない、という事実を点検するべきである。》
「運歩もし休することあらば、仏祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、仏法不到今日ならん。」
《「青山」(法身)の歩みがもし休まることがあるならば、仏祖が現れることもないし、「青山」(法身)の歩みが行き詰まってしまうならば、仏法が今日まで伝わることもなかっただろう。》
「進歩」と「退歩」
ここで「進歩」と「退歩」ということばが出てくる。
「退歩」は前回も書いたが、〈今、ここ〉としての自己に立ち返ることによって「青山」(法身)の歩みにつながることであり、それが「回向返照の退歩」を学ぶこと、すなわち坐禅であった。
対して、「進歩」とは、そうして自己の本性を覚った者が、仏としての主体性をもってさらなる弁道に励んでいくことであり、そして、本性(法身)と寸分もずれることのなくなった者(つまり本当の解脱者)が、仏祖となって、教え(法)を伝えていく、その一連の運動のことをいう。
だから、そもそも「青山」の歩みがやんでしまったら、仏祖も現れず、仏法が今日まで伝わることもなかったということである。
「進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩のとき進歩を乖向せず。」
《「進歩」はいまだやまず、「退歩」もいまだやまない。「進歩」のとき「退歩」にそむくことはなく、「退歩」のとき「進歩」にそむくことはない。》
前後の歩みのごとし
石頭希遷禅師(700~790年)の『参同契』に「明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし」という記述がある。明(=事)と暗(=理)はおのおの相対している、つまり一如であり、たとえるなら前後の歩みのようだという。
人の歩みを例にしたとき、一方の足が前に出ることはもう一方の足が後ろに下がることであり、同じように、一方の足が後ろに下がることはそのまま一方の足が前に出ることである。要するに、歩みというのは、「進歩」と「退歩」が同時にあるから成り立つものであり、両者は決してお互いに離れることはないということである。それは修証は一等だということであり、「迷と悟」「衆生と諸仏」「生と死」「色と空」の関係をも示している。
法華が法華を転ず
ちなみに「法華転法華」の巻では、本来仏である心が迷うとき、修行者は、「法華」(法身)に転ぜられ、自己の本性に目覚めるために必死に弁道に励むが、自己の本性に完全に目覚めた者は、今度は逆に「法華」(法身)を転じていく、つまり法を伝えていくのだ、と言っている。
自己の本性を忘れた者が、自己の本性そのものによって自己の本性を思い出させられ、自己の本性を思い出した者は今度はそれを伝えていく。そういった運動がこの世界の真相である。つまりそれが「山」の歩みである。
「この功徳を山流とし、流山とす。」
《この功徳を「山」の流れることとし、流れることを「山」の本質としているのである。》
この「山流」というのは、のちに出てくる雲門禅師(864~949年)の「東山水上行」ということばによる。ここでは「青山」ではなく「東山」となっている。そして「歩み」に対して「流れる」ということばには「水」が関係してくる。「東山」とは何か、そして「山水経」における「水」とは何なのかは、のちに明らかになる。
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