見出し画像

「時」について②(「有時」という世界)

 前回、スクリーン上の世界(現象界)を照らしている光が、本当の時間すなわち「時」であり、この世界(現象界)とは実在(光明)の影であるということを書いた。
 しかし、このように言葉にすると、どうしても照らすもの(=実在)と照らされるもの(=世界)とが分かれて存在しているかのような錯覚が起きる。そうではなく両者は一如である。言葉は性質上、二元的な構造を持っているので仕方がないものの、気をつけなければならない。

 道元禅師はそうした言葉のもつ二元性を避けるためか、「有時」という言葉を使っている。
 「有時」とは、「存在」(=有)がそのまま「時」である、という意味である。ここでいう「存在」(=有)とは、直線的な時間上を推移していく空間的な実体のことではなく、「時」というあり方で在る、あるがままの存在(=法)のことである。

 「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆえに時の荘厳光明あり」(『正法眼蔵』「有時」の巻)

 言うところの「有時」とは、「時」がすでに存在そのもの(=法)ということであり、したがって存在はすべて「時」である。光り輝く仏の身(=法身)も「時」であり、「時」であるがゆえにその姿には「時」の荘厳な光明がある。

 仏も「時」である、という。したがって仏とは、一丈六尺の金ぴかに塗られた仏像や過去の歴史的人物として化石のごとく祀り上げられるものではなく、ましてや超越的な実体などという妄想でもない。「時」として常に働いている(”光そのもの”として輝き続けている)現実の存在である。そして、われわれも同じく本来は「時」としての存在だからこそ、修行によって仏(光の存在)になれるのである。
 しかし、われわれはスクリーン上の世界に自我として浸りきっているため、光=「時」としての本来の自己に気づかない(文字どおり「無明」である)。そして気づかないかぎり、「私」には直線的な時間を推移する空間的なモノや人しか見えず、本来の「時」としての存在、「時」としての世界、を実感することができない。本当は自己がそのまま「時」であるのに。

 「われを排列しおきて尽界とせり、この尽界の頭々物々を、時々なりと覰見すべし。物々の相礙せざるは、時々の相礙せざるがごとし。このゆえに同時発心あり、同心発時なり。および修行成道もかくのごとし。われを排列してわれこれをみるなり。自己の時なる道理、それかくのごとし」(同上)

 (「時」である)自分自身を並べておいて世界としている、この世界における一つひとつのものごとを、すべて「時」であるとしっかり見るべきである。ものとものが本来お互いを邪魔せず存在しているのは、「時」と「時」がお互いを邪魔しないようなものである。このゆえに、自己が発心する時は、同じく「時」であるすべての存在が発心しているのであり(=同時発心)、それは菩提心という〈ひとつの心〉が「時」というすべての存在を生み出している(=同心発時)ということである。そして、修行して仏に成るということも、まさにそういう原理によるのである。この世界というのは、自分自身を並べて(展開して)自分でそれを観ているのである。自己が「時」であるという道理は、まさにそういうことである。

 「有時」であるこの世界とは、「時」である自己が自分自身を万象(=有)として展開し、自分で自分のことを観ているものだという。さらには、その「観ている」という事実すなわち「観」ということも「時」であるから、ここには「観る」「観られる」といった主体と客体の二元性はかけらもない。自他不二、依正不二である。
 この「不二」という事実が「有時」であり、この「不二」のままに、ただ坐るのが道元禅師の言う「打坐」である。よって道元禅師はこう言う。

 「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端座するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(『弁道話』)
 「わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆえに、無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり」(同上)

 もし一人が一時の坐禅をするときでも、全世界が仏の印(=坐禅)をなし、全宇宙が悟りとなる。それはすべての存在とひとつになり、すべての「時」とまどかに通ずるがゆえに、空間的には全宇宙において、時間的には過去・現在・未来の三世にわたって、永遠の仏の教化が行われるのだという。
 これは自我として生きる「私」には全く理解不能なことである。「私」が坐禅をすることで宇宙全体が悟りの世界となるなど、いくら考えてもあり得ることではない。それもそのはずで、「私」とは不二ではなく二元(=分離の意識)であり、すなわち悟りではなく迷いそのものであるから当然である。
 だが一方で、自己が「時」であり、全存在が「時」であるという事実からすれば、道元禅師はごく当たり前のことを言っているにすぎない。「私」が坐るのと「時」としての自己が坐るのとでは、優劣の話ではなく、全く次元の異なる話なのだ。
 誰もが本来、自我として生きる二元的・水平性の世界(=世法)と、「有時」としての不二的・垂直性の世界(=仏法)という二つの次元を生きている。が、道元禅師が語る仏道の世界は徹頭徹尾、後者の世界なので、両者の次元を混同しないようにしなければならない(といっても、両次元の交わるところで学ぶしかないわれわれにとっては、なかなか難しいことであることも確かである……)。

 

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?