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かんばんをたてる

あえて看板を出していなかった理由の裏にあるもの

 「みんなの学び舎ことのは」は、看板がない。

 入り口を入ったところに、ポスターサイズに引き伸ばしたロゴマークが、額縁に入れられてイーゼルに乗っかっているが、これがオープン当初玄関先に置いていた看板である。2021年7月7日のオープン日からおよそ2ヶ月、台風一過の強風に飛ばされて、額縁の留め具が破損、それ以来屋外では使用できなくなった。直せなくはなかったが、同年11月にフリースクールのオープンを控えていたので、「あえて」屋外の看板はやめようと考えた。

 他の記事を読んでいただくことで説明は割愛するが、フリースクールとは不登校児童生徒の昼間の居場所、学校の代替物である。当方は一見普通の民家なので、「それと知らなければたどりつけない場所」となっている。想像に難くないと思うが、不登校の児童生徒は「学校に行っていない自分が世間からどう見られているのか」を非常に気にする。表から見れば、フリースクールとは分からない外観の方が、そんな子どもたちの心理的な負担感が軽くなるのではないかと考えた。子どもたちが通いやすいために、看板はいらない。

 しかし、他方、こうも考えている。なぜ、不登校の児童生徒がこそこそ隠れるように学校に通わねばならぬのか。「学校に行っていない自分が世間からどう見られているのか」を非常に気にする傾向、は何も子どもたちの内側から発せられたものではなく、一部の前時代的な人が作り出す「世間」という空気が、ぼんやりと生み出しているものにすぎないのではないか。学校に行かないのは罪ではない。恥じることでもない。どんな場所でも自分の学びに向き合っていたらそれでいい。そういうメッセージを伝えている場所のはずなのに、「こそこそ通う」をデフォルトにしていいか。

 子どものための場所なんだから、子どもの通いやすさ最優先で間違っていないのは分かっている。だけど、こういうの、許せないタイプの人間として生まれ育っている私は、「地域教育の拠点/シン・フリースクール」としての看板をどかんと立ててしまいたいと思ってしまう。看板を立てることで、うすら寒い「世間」を根こそぎ変えていく方が、次の世代の子どものためになるのではないかとか、「胸張って通えよ」というメッセージを発信した方が自分の気持ちに正直になれていいじゃんとかいう、自分本位な仮説を立ててしまう。

「価値観を変えよう」なんておこがましいから

 フリースクールを始めてすぐの頃、地元のおじいちゃんが突撃してきたことがあった。
 「昼間に子どもが入っていくのをよく見るから、何をしとるんかと思って聞きに来たんや」とおっしゃった。私は丁寧にこの場所について説明した。
 「ふうん、そういうのがあるんか。近所のばあさんらが心配しとったで俺が来たんや。そういう場所やって言っとくわ」と、おじいちゃんは去っていった。
 その時、私は「この地域で理解を得ていくのは難しいかもしれない」と思った。あの時舐めるように店内を見まわしたおじいちゃんの目に、iPadで絵を描く子と学校のワークで勉強する子とゲームをしている子が混在しているこの空間はどう映っただろうか。おじいちゃんは、「よかれと思って心配した」近所のおばあちゃんたちにどんな話をし、おばあちゃんたちはどう思うのだろうか。基本的に他者にどう思われようとさほど気にしない私だが、「世間」のほの暗さのようなものを感じてため息をついた。

 また、つい先日、地元情報誌で当方のことを取り上げてもらった直後に、お店に電話してきたおばあちゃんがいた。
 「すごくいい活動しとるんやね。頑張ってね。子どもは宝やでね。おばあさんには何もできんけど応援しとるよ。」
 地元のご高齢の方の直電による素敵なエールには、先述のこともあって胸が熱くなった。人の考え方や感じ方は、世代なんかで区切られるものではないし、信念をもってやっていることは誰かには理解してもらえるものだと学んだ瞬間だった。

 今、日本は、国全体で平成の30年間でじわりじわりと溜めてきた膿のようなものを、この時代を包んでいる閉塞的な空気感を、一気にひっくり返すようなスーパーヒーローの登場を、みんなが待っているような、そんな印象を私は受けている。その態度は、受動的で、非主体的で、この国の抱える教育課題をそのまま投影しているかのようだ。

 私は、心のどこかで、教育界にはびこるものだけでも、取り去ってしまうヒーローになりたいと考えていたと思う。せっかく一大決心をして教員を辞めたんだもの。地域の価値観を変え、教育的な課題にメスを入れ、変革をもたらす存在になってやろうくらい思っていた。

 でも、それは無理だ。他人は他人によって変わらない。誰かの価値観を根こそぎ変えてしまおうなんて、その人の生きてきた時間を軽視している、とてもおこがましい考え方だったと反省した。
 でも、その代わり、地域には能動的に新しい価値観を取り入れようとする個人がいる。主体的に身近な社会のことを考えられる「気のいい大人」がいる。世代の枠なんて簡単に飛び越せる軽やかな生き方ができる人がいる。そうした尊敬できる人たちが「同志」として集ってくれるだけで十分だ。私が目指すのはスーパーヒーローではなく、まずは響く人にしっかり心の底から響くことをやりきれる、自分の信念に徹することができる凡人でなければならない。

信念を可視化する

 そんなわけで、実際に看板を立てるかはともかく(2023年3月現在、そんなことができる予算は全くない)として、私はもっともっと地域の中で、教育的な信念や不登校児童生徒に対する考え方を、広めていかなければならない。誰もが受信できる形になっていなければ、「気のいい大人」にたどりつくこともできない。
 このnoteだけでなく、「信念を可視化する」場面をもっとたくさん作っていこうと思う。
 具体的には、①人を集めて私の教育観を聞いてもらう機会、②当方が何をしているのか表示する看板のようなもの、③私の教育観に賛同して広めてくださる電波塔のような人、を今年中に全て揃えていきたい。
 私がすべき努力は、可視化したものの質を上げていくことだ。どんな地域よりも「羽島で子育てするのが幸せだ」と感じられる地域教育を実現していき、その実践を多くの人に享受してもらえるように毎日を過ごしていきたい。

 店の前に看板を立てるかどうか、は子どもたちにも意見を聞いてから決めよう。新しい試みの私設図書館のオープンも近く、いよいよ当方での事業内容が一言で説明できないようなものになってきた。
 だから、とりあえず「説明すると長くなるから、とりあえずHP見て!」という気持ちだけ外に掲げている状態。 
 もっともっと具体的に。もっともっと広く、遠く、強く伝播するように。信念を強固にもち、具現化し、魅力的なものとして可視化して発信する努力を続けていこうと思う。

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