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走ることは、記憶との併走かもしれない

よし、今日もひとつ、日課を達成できた。3日に1日は、どんな距離でもいいので自転車で外を走ろう、という日課。短時間だけど、10kmは超えていたので嬉しかった。ランニングと一緒。こういう活動記録はちゃんと録っておいた方がいい。今はよくできたアプリが、選べるほどあることだし。

1時間少しのライドの間にも、いろいろ思いが錯綜としたので、一応の記録として、日記兼エッセイめいたことを書きたいと思います。

長くはならないと思います。

*

アイキャッチの写真は、今日のライドで寄って撮影したんですが、ひとりで自分だけの感傷に浸ってました。ちょっとだけね。

ここに来たのは、昨年の3月以来だったのですが、前は電車で来たから。その時は、この美術館目当ての来訪でした。

けど10か月経って、私いま、同じ場所に自転車で来てるんだ、って。

対照的に変わらずそこにあったものを、あの時と同じアングルで撮りながら、そう思ったのです。

「その事象自体」は、言葉にすると余計に、大したことではないのかもしれない。

けど前回来た時のことって、昨日のことみたいなんだけど、それでも10か月なら10か月分、ちゃんと時は経過しているし、私もそれなり分変化をしているのだという、実感を得たのは事実。

同じ場所、同じ空間。でも私の光景の見え方は、私自身のいろいろは、10か月前とは変わった。

*

自転車で、そうやって時に足を止めたり、進んだりしながら、頭の中では常に、いろんな思いが駆け巡っている。それはきっと止められないことなんだろうなと思う。

そして駆け巡るいろいろのほとんどが、「記憶」と結びつている気がしてならない。

ーーーこの川べりと似たところを、前にも走っていたな

ーーーこの道は土のにおいがするな。こんな都会でも、子どもの頃のにおいを思いだすのだな

ーーーこの公園の中を走っていると、前住んでいた土地での出会いを思いだすな

ーーーあの時にはこんなことを言われたっけ

ーーーあの人は今どうしているだろう

ーーーそういえば、ここは10か月前に来たところだな

ーーーひと月前より、この自転車にだいぶん慣れているな

なぜだかは分からないけど、私が「ひとりで道を走る」とき、気づけばいつも記憶と併走してるのだ。

そしてひとしきり記憶とぐるぐる付き合った後には、「未来」のことを考え始めるのだ。

そのころには、まるで予定されていたことのように、「家」に戻ってきているのだ。

ーーー行きて帰りし物語

ふと、そんな言葉が浮かんだ。

*

だから。

きっと、「これまでの自分と今の自分」と向き合うのに、「ただひたすらに走る」という行為は、存分に効果を発揮するものなのだと、私は走るたびにどんどん、確信してきています。

「行きて帰りし物語」

本来の意味とは、少し異なるかもしれないけど、ある意味では、そういうことなのかもしれないです。

自分の家をしばし空け、ぐるぐる冒険をして、頭の中もぐるぐる冒険をして、でもきちんと帰ってきて、現実世界へと戻っていく…

次のアクションとして、未来の自分へと進み始める…

…少し、大袈裟なのかな。

でも、確かなのでは、と思うのです。

毎回、「過去の私と出会ってくる!」って思うから、走りに行っているわけではない。でも、結果的に、気づいたらそうなっていて。それは悪い気はしなくて、むしろ心地よく満たされていて。

*

自転車でも、山歩きでも、シンプルなランニングでも、「準備を整えて出かけていく」って、なかなか、億劫に感じてしまうような、人によっては、「何でそんなことわざわざ」な行為でもあると思うし…

でも、私がそれでも「何となくやめられない」のは、つまりは、こういうことなのかなって、思うのです。

次はどんな「ぐるぐる」と出会うのだろう?

sao





ありがとうございます!幸せな表現ができるよう精進します*.。*