走ることは、記憶との併走かもしれない
よし、今日もひとつ、日課を達成できた。3日に1日は、どんな距離でもいいので自転車で外を走ろう、という日課。短時間だけど、10kmは超えていたので嬉しかった。ランニングと一緒。こういう活動記録はちゃんと録っておいた方がいい。今はよくできたアプリが、選べるほどあることだし。
1時間少しのライドの間にも、いろいろ思いが錯綜としたので、一応の記録として、日記兼エッセイめいたことを書きたいと思います。
長くはならないと思います。
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アイキャッチの写真は、今日のライドで寄って撮影したんですが、ひとりで自分だけの感傷に浸ってました。ちょっとだけね。
ここに来たのは、昨年の3月以来だったのですが、前は電車で来たから。その時は、この美術館目当ての来訪でした。
けど10か月経って、私いま、同じ場所に自転車で来てるんだ、って。
対照的に変わらずそこにあったものを、あの時と同じアングルで撮りながら、そう思ったのです。
「その事象自体」は、言葉にすると余計に、大したことではないのかもしれない。
けど前回来た時のことって、昨日のことみたいなんだけど、それでも10か月なら10か月分、ちゃんと時は経過しているし、私もそれなり分変化をしているのだという、実感を得たのは事実。
同じ場所、同じ空間。でも私の光景の見え方は、私自身のいろいろは、10か月前とは変わった。
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自転車で、そうやって時に足を止めたり、進んだりしながら、頭の中では常に、いろんな思いが駆け巡っている。それはきっと止められないことなんだろうなと思う。
そして駆け巡るいろいろのほとんどが、「記憶」と結びつている気がしてならない。
ーーーこの川べりと似たところを、前にも走っていたな
ーーーこの道は土のにおいがするな。こんな都会でも、子どもの頃のにおいを思いだすのだな
ーーーこの公園の中を走っていると、前住んでいた土地での出会いを思いだすな
ーーーあの時にはこんなことを言われたっけ
ーーーあの人は今どうしているだろう
ーーーそういえば、ここは10か月前に来たところだな
ーーーひと月前より、この自転車にだいぶん慣れているな
なぜだかは分からないけど、私が「ひとりで道を走る」とき、気づけばいつも記憶と併走してるのだ。
そしてひとしきり記憶とぐるぐる付き合った後には、「未来」のことを考え始めるのだ。
そのころには、まるで予定されていたことのように、「家」に戻ってきているのだ。
ーーー行きて帰りし物語
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
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だから。
きっと、「これまでの自分と今の自分」と向き合うのに、「ただひたすらに走る」という行為は、存分に効果を発揮するものなのだと、私は走るたびにどんどん、確信してきています。
「行きて帰りし物語」
本来の意味とは、少し異なるかもしれないけど、ある意味では、そういうことなのかもしれないです。
自分の家をしばし空け、ぐるぐる冒険をして、頭の中もぐるぐる冒険をして、でもきちんと帰ってきて、現実世界へと戻っていく…
次のアクションとして、未来の自分へと進み始める…
…少し、大袈裟なのかな。
でも、確かなのでは、と思うのです。
毎回、「過去の私と出会ってくる!」って思うから、走りに行っているわけではない。でも、結果的に、気づいたらそうなっていて。それは悪い気はしなくて、むしろ心地よく満たされていて。
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自転車でも、山歩きでも、シンプルなランニングでも、「準備を整えて出かけていく」って、なかなか、億劫に感じてしまうような、人によっては、「何でそんなことわざわざ」な行為でもあると思うし…
でも、私がそれでも「何となくやめられない」のは、つまりは、こういうことなのかなって、思うのです。
次はどんな「ぐるぐる」と出会うのだろう?
sao
ありがとうございます!幸せな表現ができるよう精進します*.。*