目を開けてお祈りを 第8話
彼のことを知っていくうちに、授業を受けるだけでは満足できなくなった。そんな私は、ついに先生にバレンタインチョコを渡すことを決心した。毎年その時期は、生徒たちが持ち寄ったチョコの香りで教室は充満していた。
食べる専門の私は、彼に渡すならと、料理のプロである母とチョコを作ることにした。
「何人分つくるんだっけ?誰ちゃん用?」
「十五人!クラスの仲良い子たちに渡すよ」
「ママと一緒に作ったって言っといてよ。この労働が報われない」
「ありがとうごぜえます」
何よそれ、と母は笑った。
母に言われるがまま、小麦粉、ココア、チョコ、バターの重さを計って、混ぜて焼く。なんとか見てくれのいいものが出来上がった。ラッピングまで、ほとんど母にやってもらった。
当日はもうドキドキだ。教室につくと、みんなで持ち寄ったものを交換する。一つひとつラッピングしている人、大きなタッパーに入れたチョコを「みんな貰って~!」と配り歩く人、保冷バッグに生チョコ入れて「食べごろは今だから!」とせかしてくる人。
「先生にはいつ渡すの?」
「今考えてるところ」
「日が暮れちゃうよ」
「うるさいな」
なんてアケミとはしゃいだりして。
ふと、彼女はこちらを見る。
「ところでさ、パパとママにはまだ黙ってるの?進路のこと」
そんなこと言われると、耳が痛い。
彼女のいう通り、モヤモヤした気持ちのままでは、成績は上がらずじまいだった。そんな憂うつな気持ちを吹き飛ばすためにも、このバレンタインというイベントは必要だった。
先生は教科用の準備室によくこもっていたので、そこまで渡しにいった。生徒たちの教室から離れた、ひっそりとした別棟にその部屋はあった。
取っておいた一番見た目のいいチョコに(いつもありがとうございます)と書かれたカードを添える。『好きです!』なんて書く勇気はない。私は深呼吸してドアを開けた。
「先生、チョコ作ったのでどうぞ」
彼はパソコンから顔を上げる。
「あら、ありがとう。いただくね」
先生は自然に受け取った。渡して受け取るまでの時間が、スローモーションみたいだった。沈黙が訪れる。なんだか気まずくて、すぐに退室した。走って逃げたかったけれど、不自然だから止めにした。
その後は中々落ち着けなかった。塾ではうわの空すぎて、
「何、チョコでも渡す予定あるの?」
とバイトの大学生が冷やかしてきた。
「もう渡しました」
ブスッとむくれる。ガダンッ!教室の後方で大きな音がした。ナオキ君だった。
「へえ~、お返し楽しみだね」
「返ってくるかわかりません」
「渡してくれるでしょ」
チューターの先生はニヤニヤしている。
「先生その人のこと知らないでしょ?」
「そうなの?」
何言ってんだコイツ。
「誰かさんじゃないのか」
あと俺にもチョコくれよなと、先生は言った。普段口うるさく勉強しろというくせに。あなたに割く暇なんてないよ。私はノートに顔を戻した。
「あ、あのさ」
先生が去ったあと、ナオキ君が話しかけてきた。
「いつもチョコ配ってなかったよね?」
「うん、今年は気が変わってね。十五人分も作ったんだ、大変だったよ」
「そっか」
そのあと彼は遠慮がちに言った。
「僕にもくれたらよかったのに」
「なんだ、先生みたいなこと言うんだね」
意外だった。彼とは浮いた話はしたことがなかったし。
「三倍返ししてくれるなら、あげてもいいよ」
「ほんと!」
「そんなに嬉しいの?」
「いや、まあ」
彼はモジモジしだした。
「男子校ではそんな行事関係ないからさ」
確かに。彼の男子校については、一部のイケメンで有名な先輩以外、チョコのウワサは聞いたことがない。
「去年は部活の先輩に『◯女のヤツに声かけようぜ』って、学校の最寄駅に呼び出されたよ」
「あ、見たことある。『チョコレートください!』って、駅で並んで叫んでる人達」
「そうそう、困ったもんだよ。まあ行かなかったけど」
話もひと段落したので私は勉強に戻った。しかし彼はそのまま突っ立っている。何?と彼の顔を見る。ナオキ君はぎこちなく微笑んで席に戻った。
ふと、彼は進路をどうするんだろう、と気になった。まだそんな話はしたことがなかったから。しかし彼はもう机に向かっていたので、その日は話せなかった。
バレンタインが終わると、ホワイトデーがやってくる。私はお返しを期待して、職員室の近くをウロウロした。
「あ、ちょうどよかった」
「偶然」私を見つけた先生は、準備室に呼んでくれた。お返しを用意してくれたんだ!ドキドキしながら向かう。他の生徒たちがチラチラ先生と私を見てくる中、彼の後ろを歩くのは緊張した。
けれどドアを開けると、そこにはたくさんのラッピングされたお菓子の袋が並んでいた。洋菓子屋さんでまとめ買いしたのだろう。丁寧にリボンがかけられている。カードなんて付いてない。このお返しは間違いなく義理だった。
「好きなのを持っていっていいよ」
残酷な言葉だ。私は彼を慕う生徒のひとりに過ぎないのだと、痛いほど思い知った。
「ありがとうございます…」
私はあいまいに微笑んで、お礼を言うしかなかった。そのとき、先生のデスク横にかかっている日めくりカレンダーには、第一コリントの信徒への手紙 十三章 四節
「愛は寛容であり、愛は情け深く、羨むことをしない」
だった。いや知らんし。
ーーーーー
下校後、私は塾の食事スペースでそのお菓子をつまんだ。笑顔の人形クッキーだ。ムカつく顔。ガリッと頭からかじってやった。
「お疲れ」
気がつくとナオキ君が隣にいた。丁度いい、愚痴でも聞いてもらおう。
「あのさ」
彼はカバンからゴソゴソ小さな紙袋を出した。
「僕も恒例行事に乗りたくて」
「え、私に?」
「うん。マドレーヌ嫌い?」
「好き好き。開けていい?」
袋には学校の最寄りにあるケーキ屋さんのロゴが入っていた。
「あそこのだ!美味しいよね、今もらっていい?」
「豪華なクッキーもあるのにいいの?」
「いいんだよ、義理より友達にもらうお菓子の方が嬉しい」
「友達か…」
彼は何か言いたげだった。それを横目にマドレーヌを口にする。しっとり甘くて美味しかった。モヤモヤが少し晴れた気がした。
「ナオキ君は志望校決まってるの?」
今ならこの話をできるかもしれない。私はお菓子をもう一口食べる。
「△△大学だよ、あと国際学部。」
「そうなんだ、賢いところだよね」
マドレーヌを食べきる前に、この話をしないと。
「それは、ナオキ君が志望してる大学?それとも親からすすめられて?」
「あーそれは自分かな。親も渋々オッケーしてくれた感じだよ」
「どうやって説得したの?」
「親は国公立に入れたいみたいなんだけどね。僕はそこまで頑張れる自信はないし、その中で行きたい大学もなかったから。第一志望に行きたい理由を淡々と説明したかな」
「そっか、えらいなー」
淡々と説明するだけで、聞き入れてもらえたのかな。
「話し合いはすんなりいったの?」
「まあ多少揉めたけど、最後は向こうに折れてもらった感じ」
「そっか、ナオキ君頑張ったんだね」
彼は私の顔色をうかがう。
「まあね。何?進路で悩んでるの?」
私は、父親の望む進路と、自分の志望大学が違うという話をした。
「それはしんどいね」
「うん、しんどい」
「ご両親に話すつもりはないの?」
「話したい、でも反対されたら、どうしたらいいのかわからない」
マドレーヌはすでに食べ終わっていた。
「『滑り止めの大学について相談がある』って言ってみれば?第一志望だってことは伏せてさ」
「なるほど、そうしてみようかな」
その時バイトの先生が入ってきた、
「お邪魔して悪いけど、そろそろ勉強しろよ~」
とニヤニヤしている。相変わらずうるさいな。
「まずはお母さんから相談してみれば?」
荷物を片づけながら彼は言った。
「わかってくれるかな」
「きっと味方になってくれるよ」
私もお菓子を片づける。残りのクッキーマンたちの眼差しは、私を見守っているように見えた。
ーーーーー
塾から帰った後、母が夜食を用意してくれていた。時計は夜の十時をまわっている。父はまだ帰ってきていない。
「滑り止めの大学について相談があるんだけど」
「なあに~?」
母はもう眠たそう。そりゃそうだ、一日中家事やパートで働きづめだったんだもの。でも今しか時間は無い。
「この大学を滑り止めにしようと思って」
「ふーん、家からも通えるし、偏差値的にも第一志望より可能性がありそうだね。いいんじゃない?」
「お父さん、なんて言うかな」
「まあ大丈夫でしょ」
じゃあ先にお風呂入るね〜、と母は去ってしまった。あっさりしすぎて逆に不安。本当に大丈夫かしら…?けれど私も眠かったので、それ以上考えられなかった。
「なんでこの大学を選んだんだ」
次の朝、不安が的中していた。母は食卓テーブルに、私が渡した大学リストを置きっぱなしにしていたのだ。私も片づけておけばよかったのに、そこまで気が回らなかった。
何も知らない父は、朝そのリストを目にしたらしかった。昨日も遅くまで働いていたからだろう。今日もすこぶる機嫌が悪い。
「過去問が第一志望のところと似ていて、効率よく勉強できるかなと思って」
口から出まかせを言う。これは父に突っ込まれたとき用に用意していたセリフだった。
「どの教科が?」
「英語と国語」
「そうか、詳しくはまた聞くけど、第一志望の勉強をおろそかにするんじゃないぞ」
「わかりました、じゃあ、お先に行ってきます」
私は逃げるように家を出た。何とか誤魔化せたのか、いやまだ話し合いは残っている。でも気持ちに蓋をしていたときより、ずっと楽だった。
ーーーーー
「パパに何とか話せたよ」
「よかったじゃん!どうだった?」
「ん~、まだ微妙なんだけどさ…」
朝教室に着いてすぐ、私はことの顛末をアケミに話した。
「ふ~ん私が言っても聞かなかったのに男子の言うことは聞くんだ」
彼女は口を尖らせる。
「そうじゃなくて、アケミが押してくれていた私の背中を、最後にチョンとつついたのがナオキ君だっただけ」
「そうなの?」
「そうそう、アケミ様のアドバイスがあってこそだよっ」
「うむ、ならいいけど?」
やっとアケミのモヤついた表情が晴れた。
ーーーーー
「でも珍しい気がする、サナエとその子がガッツリ進路の話をするの」
「確かに、マドレーヌをもらうタイミングを逃してたら、喋れてなかったな」
「マドレーヌ!?それってどういうこと!?」
ランチ中、急にアケミは身を乗り出した。何の事かしらと思いつつ、私は塾でのいきさつを話した。
「それって絶対サナエに気があるよ!」
「いや、ただの友達だよ」
ありえない、何より彼に失礼だ。
「英語のアドバイスをくれたり、地元の話をしたり。異性の友達がいるって楽しいよ、恋愛にすぐ結びつけないで」
「でもさ」
アケミは引かなかった。
「マドレーヌの意味知ってる?」
「意味?そんなのあるの?」
「お礼が何のお菓子かによって意味が違うんだよ、お子ちゃまは無知なんだから。マドレーヌは『あなたともっと仲良くなりたい』」
「ほら友達じゃん」
「あと『あなたと特別な関係になりたい』って意味もあるの!」
「そんなの前者に決まってるでしょ。ところで、クッキーって意味とかあるの?」
私は先生のお返しのほうが気がかりだった。
「あ、あるある。義理」
なんと。しばらくショックで、午後の授業はうわの空だった。しかし、ハッと思い出した。ナオキ君にお返しをしなくては。いや、ホワイトデーのプレゼントには何も返さなくていいのか?でもなんだか悪い。そこで家に帰ってから、また母に助けを求めた。
「悪いけど」
母は首をふった。十五人分のチョコづくりは負担だったらしい。
「これ以上は自分で作って」
正直、面倒くさかった。いままで母に任せきりだったから。仕方なく出来合いの生チョコレートをスーパーで買って、ラッピングし直すことにした。偽造工作だけど、まあ良いでしょう。
そのとき父が帰ってきた。私は急いでチョコ達を片づけた。
次の日の下校中、学校の最寄り駅で、私は父の目をかいくぐって死守したチョコレートを無事ナオキ君に渡した。
「手作りチョコをもらうのが夢だったんだ」
ナオキ君は小躍りした。世の中には知らなくていいこともある。
「お店のチョコみたいに美味しいよ」
「まあ、ママに手伝ってもらったからね」
後ろめたかったが良しとした。先生とは対照的に、全身で喜んでいる。少し心が慰められた。ふと、向かいのホームでクラスの子たちがこっちを見ているのに気が付いた。手を振ると、あいまいな笑顔。何だったんだろう、少し気になったけど、そのままにした。
ーーーーー
いまさらだが、牧師先生が結婚していることはもうわかっていた。あのルックスだったら放っておかれることはまずない。他の若い男性の先生とは違い、女子生徒たちとの会話にまったくオドオドしないところ、ほめられても軽く「ありがとう」と流す様子もそう思わせた。
どうせチョコのお返しも奥さんが選んだのだ。とはいえ彼が既婚者である事実を、知りたくも、認めたくもなかった。
高校三年の五月、その日の礼拝は牧師先生が話す日だった。聖書箇所は、詩篇一二七章三節、
「見よ、子供たちが主からの賜物である」
不意に嫌な予感がした。
「先日は子どもの日でしたね、今日は私の娘が生まれたときの話をします」
しばらく何も聞き取れなかった。声は耳に届くけれど、言葉として認識できない感じだった。拒否していたのかもしれない。
「産まれたばかりの娘は真っ赤で『赤太郎ってこんな感じかな』と妻に言ったことを、妻は今でも恨んでいます。悪いことをしました」
とかなんとか言っている。やめろ!こっちはリアルなパパエピソードなんか聞きたくないんだ!と心の中で耳を塞ぐ。
観念して心の耳栓を外したころには、
「私たちも赤ん坊のようであるべきです。無垢な赤ん坊は驚くべきスピードで神の教えを吸収します」
と、いつもの聖書談義にもどっていた。
礼拝が終わるとアケミが話しかけてくる。
「生きてる?」
「わからん」
「よし、患者は意識があるもよう」
アケミはにやにやしている。
「ヤケ酒なら付き合いますよ」
「いいです、まだ未成年だし」
「ヤケコーラにしておく?」
「楽しそうにしないでよ」
「ごめんごめん」
他人事だと思って。もちろん諦めるなんて無理だった。でも無理矢理付き合いたいわけでもなかった。そもそも相手にされていないのだから。
そのあと売店で、アケミはコーラを奢ってくれた。紙コップの中のしゅわしゅわした黒い炭酸をながめたあと、一気に飲んだ。
私をめちゃくちゃ喜ばせたいと思ったら、サポートいただけるとその通りになります🌸