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「プルートゥ」(2015.2)


森ノ宮ピロティホール(大阪・森之宮)
 浦沢直樹 が手塚治虫の「鉄腕アトム」をリメイクした漫画「PLUTO」 初の舞台化、演出は世界的なコンテンポラリーダンスの振付家シディ・ラルビ・シェルカウイ、 主演のアトムは森山未來という話題作。煎じ詰めれば愛は人を、世界を救うかというテーマだろうと思うのだが、そこに至るまでにあまりにも多くの悲劇が展開する。
 アトムの妹ウランに永作博美、アトムと同じ高性能ロボットの刑事ゲジヒトに寺脇康文、ほか重厚な配役。シェルカウイは、日本人だけのカンパニーと仕事をするのは初めてだったそうで、Bunkamuraの助言もあってのことだろうが、なかなか渋い配役だったのではないだろうか。特にロボット工学の権威でアトムの生みの親・天馬博士とロボット史上初めて人間を殺したロボット「ブラウ1589」の二役を演じた柄本明の深い存在感がすばらしかった。
もちろん原作があり参照情報がたくさんある作品なので、内容について言及することがこの作品への批評になるわけではないが、この時代にイスラム教徒のモロッコ系ベルギー人が「PLUTO」を原作として舞台作品を創るということの問題性の大きさは、強調してもしすぎることはないだろう。
 松重豊演じるペルシア共和国科学省長官・科学者のアブラーは、トラキア合衆国(もちろんアメリカ合衆国を想定)との第39次中央アジア紛争(設定はイラク戦争)で子供を殺された。その恨みと復讐への情熱の大きさは、すさまじいものだ。それが時空の歪みとなってこの劇を成立させているような激しい力を、松重は持っている。こういう強い印象は、松重を初めて舞台で観た「トランス」 以来、変わらない魅力だ。彼の存在を通して、イスラム圏の人々の悲しみと憎しみを間近に熱く感じることができようというものだ。
 最も印象的なキーパーソンであるタイトルロールが、実はメインキャストではないのも面白い。プログラムでは「花畑の男」としか表記されていないダンサーの池島優が演じたプルートゥ。ほとんど話さず、元はサハドという温厚な青年で、花を愛し故郷を愛する心を持ちながら、アブラーによって残忍性をインプットされて、過剰なほどの凶暴性を持ってしまった彼を演じさせるには、俳優の身体ではなく、ダンサーの身体が必要だったのだろう。一つには動きの速度のことで、速さは鋭さとなって、当人の意志の強さや粗暴さを表わしたり、他者を追い詰めたりする圧倒的な力となる。それが最短距離をとれば直線的な攻撃性であり、迂回して最も遠い距離をとれば、ダイナミックでカオティックな乱舞、乱闘の様相を呈する。
 池島はストリートダンスからダンスのキャリアを始め、様々なジャンルのダンスを習得し、シルク・ド・ソレイユ登録ダンサー、コンテンポラリーダンサーとして活躍している。他のダンサーも経歴は様々だが、概ねコンテンポラリーの領域で活躍しているようだ。ここでコンテンポラリーダンスが必要だったのは、未だ名づけられていない不分明な状況そのもの(を表現するというのではなく)であらねばならなかったからだろう。再現的、描写的、比喩的なのではなく、その状態や存在であろうとする時には、身体そのものが自立的な力を持っている必要があり、そういうダンサーが集まっていたということだ。
 もちろん、森山未來が俳優としての演技力と、幼少から始めたダンスによって、その中心でありつつ架橋となる。アトムの悲しみ、感情の揺らぎを表現するには、演技だけでもダンスだけでも不十分なのかもしれない。というのも、アトムはロボットであり、生身の人間としての身体は持っていない存在を演じるということで、身体を相対化・外部化する必要があるだろう。そのための、身体の外側の目を、森山は持っているということではなかったか。
 そして、シェルカウイが様々な世界中の伝統的な身体に興味を持って自分の作品に取り込んでいくのも、常に外部でいながら没頭するというアンビヴァレント(相反した態度や価値観が同時に存在する)なスタンスを保持したいからではなかったかと思う。
 その意味で、ここでは機械的身体と生身の人間身体が並存するという異文化状況(文化と言い切るにはかなりの抵抗があるが)とその包容という構図が存在し、その微妙な差別的関係が深く底に流れている。それは、平田オリザがロボットを演者として起用した『ロボット演劇版 銀河鉄道の夜』 と同根の物語となったといってもよい。
 逆にここではロボットらしいロボット(ロボットであることが注目されてしまうような存在)が現れなかったことで、近未来のロボットと人間のほとんど区別のない親和性と、それゆえの一層の問題の根深さが浮き彫りにされた。
 シェルカウイは、首藤康之と共に『アポクリフ』 という作品の中でも木製の人形を文楽人形のように用いて、哀切きわまる情感を醸し出していた(左写真)。人形というものが持つ哀感を活かしつつ、人間の悲しみを人形に仮託して押し出すのがうまい。

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