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雑踏のスキマをひらく~書とダンスのライブパフォーマンス(2015.1)

2015年1月11日
書/aki  ダンス/西岡樹里
神戸市立灘区民ホール 1階ロビー

 踊るように書く書家は多い。あるいは、踊るように全身を使わないと、書けないのだろう。また書家は、筆の穂先というものと戯れるような感覚があるのではないのか。「はね」や「はらい」と呼ばれるような程度の問題ではなく、穂先が勝手に踊りだしてしまうような。まるで「赤い靴」。
 書について詳しくないものだから、どうしてもダンサーである西岡の側に立って見てしまう。すると、筆が墨を含んで膨れ上がる感触、それが紙に触れるフロント、穂先のバネのような弾み、力を込められて穂先が押される紙への圧力、水平の動きの摩擦、墨が少なくなってかすれる摩擦……といった書の発生のプロセスの一々が、ダンスのきっかけとなる。紙と戯れる穂先を凝視し、それとデュエットするかのような西岡のダンスの始まりは、書とダンスのコラボレーションとして、非常に想像しやすいものだった。そして、確かにきらめく瞬間が数多くあった。数年前にCASOで西岡と現代美術のペインターとの即興パフォーマンスを見たときにも思ったが、西岡のストレートで豊かな感受する力の強さが、ここでも誠実に発揮されたわけだ。
 そのこと以外の、この2人のパフォーマンスの時間の作り方の緩さや甘さは、本人たちのコミュニケーションの態様の素直なあらわれだったり、書家の現在の興味・関心の行く手を率直に表わすものであって、特に論評される必要もないだろう。
書家のakiは、写真と映画を英国で学び、帰国後現代書を始めたという人。最近はダンスや合気道にも目を向けているということから、西岡とコラボレートする形 で身体を動かす場面があり、ぼくはあまり賛成しないが、書を広義のボディワークと見れば、当然のことなのかもしれないし。
 パフォーマンスの時間と空間の作り方としては、客席を一方向にするのではなく、周りを囲んだり、自由に行き来できるようにしたほうが、このパフォーマンスには似合っていたように思う。細長い空間の、向こう側(玄関のほう)から始まり、奥(客席)に徐々に移り、最後に2人で向こう側に去っていくというのは、面白かった。
 なお、タイトルの「雑踏のスキマをひらく」、プログラム掲載の2人の対談にあった「縁側のようなホール」、冒頭で玄関のほうから川の流れのように展開される紙の流れなど、ここから新しい「場」の概念が生まれてくるかもしれない。また、それがこのホールの脇を流れる都賀川での水難事故(2008年7月)への思いとゆるやかに通底するものを生み出すかもしれない。創造は、予想もしなかったようなものを呼び込むことがある、ということではないか。

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