見出し画像

絵島生島事件について考えながら、他人の罪を糾弾することについて考えてみた。

僕はスキャンダルがきらいです。スキャンダルを見て聞いて叩く文化がきらいです。炎上がきらいです。人の悪いところをあげつらうこと、人をおとしめ、人を辛辣にこき下ろすすべての振る舞いがきらいです。そのようなできごとからは、一万光年ほど離れた場所で暮らしていたい。誹謗中傷は言うに及ばず、僕は他者への批判もきらいです。

「誹謗中傷は最低だが、されるべき批判はされるべきだ」という人がいます。「モノ」や「コト」の是非を語るのはいいんじゃないでしょうか。僕も今回、「コト」の是非について語ろうと思います。

スキャンダルの是非について。

僕は「ヒト」への批判がきらいです。人への批判は、人を罰することしかできません。批判で人をポジティブに変えることは、ほとんどの場合、できません。もし誰かのことを変えたいと願うなら、その誰かは、自分に最も近い友人や家族であるべきだと思います。少なくとも、その誰かは、テレビ画面などの向こう側にはいない。

人の批判が好きな人は多い。これは間違いなく、楽しいのです。きっと、麻薬のように、中毒になる。でも、したたかな者はこれを利用します。批判が好きな方は、夢中になって気づきません。自分の批判が、誰も幸せにせず、自分を、世の中を、生きづらくしているだけであることを。

江戸時代中期に起きた「絵島生島事件」という事件の話をしましょう。

今日では、日本史上最大のスキャンダルとも言われています。

正徳四年一月十二日、七代将軍・徳川家継の生母・月光院に使えていた江戸城大奥御年寄である絵島が、寛永寺・増上寺への代参の帰りに、木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄って、イケメン俳優であった生島新五郎と密会し、桟敷や座元の居宅で淫行や酒宴を繰り広げた後に帰城したとして、咎められた事件です。

日本最後の浮世絵師とも呼ばれる月岡芳年は、このときの様子を絵にしています。

画像1

胸元をはだけた色男として描かれている左の男が生島新五郎。生島に目線を送る姿で描かれているのは江戸城大奥御年寄・絵島。二人が二階桟敷で仲睦まじくしている風景が描かれています。

「絵島生島事件」は、亡き徳川家宣の正室である天英院派が、絵島を「門限破り」に陥れた陰謀であるとの説が、現在では定説となっています。

天英院派が絵島と生島との密会を積極的に誘導し、月光院派の勢力を削ぐため、意図的に事件を起こして騒ぎを大きくし、絵島を陥れたのではないか。そのような陰謀説です。

真実は定かではありません。たとえば、「江島実記」によれば、絵島は新五郎が「右衛門桜」で丸橋忠弥を演じた際に着用していた小袖を所望したそうです。新五郎はその代わりに葵御紋付の小袖を与えたとのこと。推しが舞台で着た衣装を欲しがるなんて、現代の演劇ファンとも通じる何かがあるような気がします。しかし、伊原青々園の「歌舞伎年表」によれば、その時期の興行は「東海道大名曾我」であることがわかっています。このことから、新五郎の小袖をねだったというのは「江島実記」の創作なのではないか、ということも疑われていたりします。

当てにならない報道や低俗な週刊誌が現在にもあるように、江戸のころもそれは変わらなかったのだと思います。

「千代田城大奥」には、「絵島の淫行は実に開き直ったもので、酒宴も大騒ぎであった。あろうことか、増上寺から持参した金子までも花代に遣わした。帰城が遅れたことにも悪びれもしていなかった。また、代参に随行した御徒目付らは、この芝居見物や茶屋遊びを内密にしていると後日共犯に問われかねないということを恐れ、若年寄に報告をした」というような書き方がされています。

評定所(江戸時代における裁判所のような場所)はこれを糾弾しました。生島新五郎は石抱えの拷問を受け、絵島は白状するまで絶対に眠らせないという拷問を受けました。生島新五郎はついに密会した旨を自白しました。この時代においては、そのような仕打ちも、当たり前のものだったのかもしれません。今では考えられない残虐さです。

でも、この出来事が、二人の罪を適正に裁くだけであれば、まだ良かったのにと思います。評定所はこの事件を機に、芝居道を含めた江戸の風俗への取締を強化しています。僕は、事件を隠れ蓑に、最初からこういうことをやりたかったのだと思っています。いつの時代でも、スキャンダルはしたたかな者に利用されるのだと。

芝居小屋は簡素にし、桟敷は二階三階を作らず一階のみにするように、豪華な衣装は慎むように、演劇は日没までに終えるように、劇場近くに座敷のようなものを備えた茶店を作らぬように。遊興をすることも禁止し、俳優らは桟敷や茶店に招かれても行ってはならない――

絵島生島事件とは、「絵島と天英院派の争いから生まれたスキャンダル」として語られることが多いのですが、本当は「生島のスキャンダルを隠れ蓑に、アーティストの表現を制限していき、権力者が民衆を取り締まりやすく法律を変えていった」事件なんじゃないかと僕は思っています。みんなが、スキャンダルに石をなげている間に、アーティストは身動きが取りづらくなって、世の中はどんどん生きづらくなる。

正徳元年の「役者大福帳」にはこう書かれていました。

「名物男坂田藤十郎、大和屋甚兵衛、中村七三郎及び嵐三右衛門の四人相果てらるれば今が三津で濡れやつしこの人につづくはなし。濡れの中村七三郎の跡継ぎ、今の名物男は生島新五郎か」

日本の演劇文化から、生島新五郎が失われてしまったことが残念でなりません。浮世絵の生島を見ても、胸をはだけさせた男の色香があります。この色香をまとった演劇文化が、スキャンダルによって途絶えなければ、現代日本ももう少しだけ精神的に豊かだったんじゃないかとすら思います。

スキャンダルで人を糾弾する熱が盛り上がると、大事なことが見逃されてしまう。悪どいたくらみは影に隠れてしまう。ヒトを批判する声は、いつの世でも回り回って、結局世の中全体を息苦しくしていく。僕はそう感じています。


いただいたサポートは、面白い文章を書くためのなにかに使わせていただきます。