episode11 「私」は宇宙の中心にいる
この「ヌーソロジーが面白い」というマガジンでは、ヌーソロジーという思想体系を創り上げた半田広宣さんの「2013:人類が神を見る日」と「2013:シリウス革命」という2冊の本を読み解きながら、私たちの意識(魂)の出自や私たちがこの世界に存在している理由を紐解いています。
前回は、私たちの意識が、主体と客体、自己と他者といった具合に分離していて、その分離意識を修正していかない限り、この世界に平和な世界が訪れることはないだろうといったことを書きました。
そこで、今回からは私たちが無意識のうちに持ってしまっている分離意識を手放していくための方法である「次元観察子」について書いていきたいと思います。
この「次元観察子」とは、「ヌーソロジー」のメインプログラムであり、「空間概念の理解」を目的としていて、この「空間概念の理解」を出来るようになると、私たちの無意識下に眠てっている意識の歪みを正していけるよういなっていきます。
私の体験でいうと、この「次元観察子」を理解できるようになったことで、まず最初に主体は自分にあるということを理解できるようになり、続いて自己と他者は分離などしていなくて、他者とは自分の意識の反映であるということが理解できるようになりました。
この「主体は自分にある」ということや「他者とは自分の意識の反映」であるということは、ヌーソロジーに限らず、スピリチュアルや自己啓発の世界で発信している人も述べていたりしますが、その多くは概念的な発信が多く、構造的な部分での説明が少なかったりします。
そういった中で、私が「ヌーソロジー」がわかりやすいと感じたのは、空間という構造を使うことで、「主体は自分にある」ということや「他者とは自分の意識の反映」であるということが理解できたということです。
こういった理解を得ることができたために、私は「ヌーソロジー」についての記事を書いていて、私が得た理解をお伝えすることで、世界が少しでも平和に近づいていけばいいな思っていたりします。
話を戻すと、私たちは目に見える世界と目には見えない世界の二つを同時に持っていきています。そして、この目には見えない世界を理解していくことが、「次元観察子」という「空間概念の理解」に繋がっていくといっていいでしょう。
この二つの引用で書かれていることが、「次元観察子」の理解の目的であり、目には見えない心の世界の理解といっていいでしょう。
そこで、早速、この「次元観察子」を見ていきたいと思いますが、とりあえず、「次元観察子」とは何なのかといった詳しい概要説明は後にして、まずは二つの球体を想像して貰いたいと思います。
ここから述べることは、「ヌーソロジー」について語られている2冊の本を読んで私が理解できたことになります。
まずは、極小のミクロの小さな点Oがあるとして、そのミクロの点が徐々に膨らんでいき、どんどん大きくなっていって宇宙の果てまで大きくなっていくと想像してみてください。
図にするとこんな感じになります。
ミクロの小さな点が宇宙の果てまで広がっていく様子を、次元観察子ψ1といいます。Ψは「プサイ」と呼びます。
今度は、逆に宇宙の果てまで広がった大きな球体が極小のミクロの世界の点Oまで縮んでいく様子を思い浮かべてみてください。
これも図にして見ます。
宇宙の果てから極小のミクロの点まで縮んでいく様子を、次元観察子ψ2といいます。
この二つの球体の違いは何かというと、球体が極小から出発するか、極大から出発するかという、球体の出発点とベクトルの方向というこということになります。
あらためて、この二つの球体を言語化していきます。
Ψ1‥‥「ミクロの点が宇宙の果てまで広がっていく」
Ψ2‥‥「宇宙の果てからミクロの点まで縮んでいく」
この二つの言葉は同じ内容を言語化したものですが、出発点やベクトルの向きが異なるため表現の方法が異なっています。しかし、同じ構造のものでも表現を変えただけで、実はその印象が大きく異なっていたりします。
たとえば、Ψ1とΨ2の出発点の違いを「私」からどう見えるか言語化してみます。
Ψ1‥‥私の前に宇宙の果てまで広がっていく小さなミクロの点がある
Ψ2‥‥宇宙の果てまで広がった球体の中に私が存在している
今度はベクトルの向きと「私」の関係で言語化してみます。
Ψ1‥‥私は広大な宇宙の中心に存在している
Ψ2‥‥私は広大な宇宙の中に存在している
こういった認識の違いが心が生み出す作用です。同じ構造のものであっても、心がそれをどのように捉えるかでその印象がだいぶ異なってしまいます。
このΨ1とΨ2の違いはなにかというと「中心」と「中」ということだけです。しかし、この「中心」と「中」の違いは大きな違いであり、「中心」は「私の存在の位置」を示しているのに対し、「中」での認識だと、「自分の存在の位置が曖昧」になってしまいます。
たとえば自分の存在の位置を「中心」と捉えることができるようになると、自分という存在を「この世界の主人公」と捉えることができるようになる反面、単に「中」でと捉えてしまうと、自分という存在は「大多数の一部」と捉えてしまいがちです。
つまり、同じ内容のことでも物事の捉え方ひとつで、感じ方や印象が変わってしまうものであり、こういった空間認識の微妙な差異によって、私たちは知らず知らずのうちに自分という存在を「主人公」ととらえるか「大多数の一部」と捉えるかの判断してしまっているということがいえるのです。
そして、私たちは育っていく過程の中で無意識のうちにΨ1の「中心」ではなく、Ψ2の「中」の意識を採用して生きていたりします。なぜかというと、現代の社会や教育のあり方や科学の姿勢がΨ2の側の説明方法を採用しているからです。
したがって、私たちは気付かぬうちに「私」という存在は「大多数の一部」という刷り込みがされていたりするのです。
しかし、この世界の本質は「私」という存在が世界の中心であり、「私」という存在が自分の世界(宇宙)を創っていたりするのです。なぜかというと、この世界(宇宙)を認識しているのは「私」であり、「私」の認識によってこの世界が認識されて存在しているからです。
つまり、私の「認識」によって世界の「認識」されているため、「私」という存在は、どこへ行っても何をしていても、この世界の「中心」であり私が「主人公」であるということになるのです。
話はそれますが、このことを老子は次のように言っています。
老子がいうように、私たちは、一人ひとりが自分自身の真ん中にいることが正しい生き方といっていいでしょう。
しかし、如何せん、私たちが今存在している世界の風潮は、Ψ2の方を採用していたりします。
奇しくも、老子は「忠」を採用しましょうといっていて、ヌーソロジーの情報のソースとなった冥王星のオコツトもΨ1の「私は広大な宇宙の中心に存在している」という考え方を採用しましょうと提案していたりするのです。
こういったことが「次元観察子」による「空間概念の理解」であると同時に、私たちの精神の方向を修正させようとする働きだったりします。
こういった感じで、本来はひとつしかない空間の認識方法を、私たちは、それぞれに異なった認識方法を持っていて、このベクトルの向きをどうとらえるかで、自分に主体があるのか、他者に主体があるのかといった判断をしていたりします。
しかし、その本質は実は一つであり、単にベクトルの向きが異なるだけであるとうことを認識していきましょう、というのが「次元観察子」の理解ということになります。
あらためて、先ほどの半田さんの言葉を見ていきましょう。
観察子の理解は、未だに無意識化しているこの、人間を突き動かしている力が存在する未知の領域の地図を、意識上にありありと対象化して浮上させることを意味している。
「ヌーソロジー」の「観察子」を理解することによって、無意識下で曖昧に理解していることを明確化し、その上で私たちが生きやすくなる方の認識を採用して生きましょうというのが、この「次元観察子」の目的といってもいいでしょう。
こういった点が、私が「ヌーソロジーが面白い」と感じた点でもあります。
この「次元観察子」はΨ1~14あり、それぞれ二つ一組で合計7組があるため、今後は、これらの観察子について、私が理解できた範囲で紹介していきたいと思います。
次回はΨ3とΨ4について説明していきたいと思います。
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