「まっさらな自分」に出会うとき、魂が動き出す
休日の朝、深い睡眠をとって目覚めたとき、自分らしさを感じられたりする。
自分らしさとは、実は何もないゼロな自分を感じているときにこそ感じられるものである。
人は、常に何かしらの役割を担って存在している。
しかし、そういった役割は時として重荷になっていたりする。
だから、そういった重荷から解放された瞬間に、自分らしさを感じられるようになる。
重荷と感じるのは役割だけではない、常識や世間体、こうあるべき、こうするべき、というようなたくさんの観念が自分の存在を重くしているといっていいだろう。
もちろん、これらが悪いというわけではない。
生きていく上で必要な物事だ。
しかし、そういった思いには重さが存在するから、それらが時として自分を心を重くさせてしまうのだ。
だから、深い睡眠をとることができた休日の朝などは、そういったすべての役割や観念を無意識のうちに手放すことができ、重さのない生命としての自分を感じられるようになる。
そして、そういった「まっさらな自分」を感じられるようになると、自分の中に存在する内なる欲求が出てくるようになる。
たとえば、今日は時間があるから、「海にいって風に当たりにいこうか」とか、「山に囲まれた温泉にでもいってみよう」とか、普段思いもしない欲求が湧き上がる。
そういった欲求は、普段の疲れを癒したいという生命としての欲求であり、普段、担っている役割とか、世間体とか、常識とか、そういった重さのあることから離れて「無」になりたいという欲求が湧き上がってくるものなのだ。
自分の中に潜む心からの望みは、「無」になることで湧き上がる。
普段の生活の中では、様々な観念が「無」になることを妨げる。
しかし、深い睡眠を経ていろんなものを手放すことができ、ゼロの状態、無の状態になったとき、自分の中に潜んでいる心の声というべき欲求がむくむくと顔を出す。
仏教の用語に「放下(ほうげ)」という言葉があるけれど、ときにはいろんなものを放下する時間を自分に与えることが大切である。
更地となった綺麗な土地でも、自然と草が生えてくるように、自分の心の状態を「まっさら」にすることができたなら、そこから生命の欲求がむっくりと顔を出す。
深い睡眠以外にも、自分をまっさらな状態にする方法として瞑想がある。
瞑想を通じて、無の状態になることができると、まっさらな自分になることができ、そういった空白の中から、ふとした気づきが生まれるようになったりする。
瞑想をすることで重い思いから解放され、内なる自分とひとつになることができるから、内なる自分のメッセージを受け取ることができるようになるだろう。
とはいえ、瞑想が上手くいくようになるには時間がかかる。
多くの人が上手く瞑想状態になれないのは、普段、担っている役割を簡単に手放すことができないからであり、目を瞑るとそういった役割について思いを巡らせてしまうからでもある。
あるいは、普段の生活で起こった出来事が頭から離れないから、そういったことをついつい考えてしまったりする。
そういった意味では、我々は無意識のうちにいろんなことを思考していて、その思考習慣を手放すことができないから、なかなか瞑想に集中できないということもできるだろう。
いずれにせよ、深い睡眠をとることのできた朝のように、運よく上手く瞑想ができたりすると、「まっさらな自分」に出会えるようになって心地よい自分を感じられるようになるものだ。
そうやっていろんな観念を放下して「まっさらな自分」になって、心のおもむくままに海に行ったり温泉に入って解放感を味わっていたりすると、今度は次なる欲求が芽生えてくるものだ。
たとえば、子どもの頃にやりたいと思っていたけれど、様々な都合でできなかったことをふと思い出して、それをやってみようという気持ちになったりする。
子どもの頃、プラモデルを作りたかったけどできなかった、というような未達の思いが湧き上がり、次の週末はプラモデルでも作ろうと思ったりする。
そういった未達の思いには、純粋性が存在している。
純粋性とは、そこに役割や世間体や常識といったことと無関係だったりすることだ。
純粋性とは、ただただ夢中になって何かに没頭したいということであり、それは生命としての自然な欲求だといっていいだろう。
大切なのは、何をするかではなく、どういった状態になるかであり、そういった無の状態、夢中になれる状態になることが生命としての自然な状態なのだ。
そして、そういった無の状態、夢中の状態になればなるほど、人は自分らしさを感じ取れるようになっていくものであり、そういった状態になれることを数珠を繋ぐようにたどっていくと、この人生でやろうとしていた魂の目的に出会えるようになることだろう。
人は様々な鎧を脱ぎ去ることができたとき、魂の目的を知ることができる。
我々はたくさんの鎧を背負って生きている。
しかし、鎧を背負うという状態は、人として自然なことではない。
鎧とは、戦いの場面で使うものであり、自分を守るための道具である。
しかも、自分を守るための鎧が立派であればあるほど重いのだ。
鎧を着た自分とは、本来の自然な自分とは異なる自分である。
だから、ときには鎧を脱ぎ捨て、それを放下する瞬間が必要となる。
鎧を着たままでは熟睡はできないし、もちろん瞑想をしても上手くいかない。
鎧を脱ぎ去り放下して、人は自然な自分に還ることができるようになる。
海に行って波の音を聴いたり、温泉の中でぼんやりするには、鎧を脱いで身軽にならなければできない。
そして、いろんな鎧を脱ぎ棄てることのできた人は、真の強さを持つことができるようになる。
一度、すべてを手放した経験のある人は強い。
なぜかというと、すべてを手放したことで、本来の自分の姿を垣間見ることができるからだ。
人は誰もが、しなやかな強さを持っている。
しかし、様々な観念がそういった強さを見えなくさせる。
全てを手放した人の強さとは、鎧を身に付けた強さではない。
自然体のあるがままの自分に備わる強さだ。
強さとは屈強さではなく、自然の中に潜む柔軟さなのだ。
我々は、本来、森のような柔軟な強さを持っている。
だからこそ、何も予定のない休日のぐっすりと眠れた朝に、ふと柔軟な強さの入り口に立つことができる。
そうやって少しづつ自分の中にある自然の森に踏み入って「まっさらな自分」に還るとき、風のようなしなやかな自分と出会えるようになるだろう。
何もない、何も纏わない、そんな自分はとても心地よくしなやかだ。
森の中の新鮮な空気を味わいながら解放感の中でぼんやりとしている瞬間に、無の自分、ゼロの自分、しなやかな自分にくつろぐことができる。
そういった自分にくつろいでいるとき、自分を養うことができるようになる。
すべてを放下し「空の自分」に出会えたなら、魂としての自分を養っていくことができるようになる。
「ゼロの自分」、「無の自分」、「まっさらな自分」、「空の自分」、そんな自分に出会うと、生命としての内なる欲求が発芽して、それを養っていくことができるようになるだろう。
「まっさらな自分」に出会うとき、魂が動き出す。
魂が動き出せば、あとはその動きに身をゆだねて生きていけばいい。
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