見出し画像

コロナ後の社会に濃厚接触は回復するか?

2020年は人類が新型コロナ感染症という未曽有の災厄に直面した年であった。そして、2021年の年初も、依然、我々はコロナ禍の真っ只中にいる。
日本では、2020年2月に最初の新型コロナウイルスによる死者が確認されて以来、2020年末までに約3,500人もの感染者が亡くなった。

ところで、厚生労働省の統計によれば、2020年1~10月の日本全国の死亡者数は、2019年の同時期より約1万4,000人少なかった。その原因として、死因がすでに公表されている1~7月で比較した結果、①新型コロナや誤嚥(ごえん)性を除く肺炎による死亡は9,137人、②インフルエンザは2,289人、③循環器系の疾患は7,913人、それぞれ前年に比べて減少したことが判明した(『日本経済新聞』2020年12月28日)。
この事実を報じた記事は、特に肺炎などの呼吸器系疾患やインフルエンザによる死亡の減少について「手洗いやマスク着用などのコロナ対策の効果で、他の感染症患者が激減している影響とみられる」と分析している。また、外出自粛の影響で交通事故などの「不慮の事故」も減少したとのことだ。

一方、海外では事情は全く異なるようだ。例えば、米国である。
AP通信のニュース(2020年12月22日付)によれば、米国の2020年の年間死者数は、2019年より少なくとも40万人以上増加し、初めて300万人を上回る見通しであるらしい。この報道の時点で、米国における新型コロナ感染症による死者は約32万人に上っており、関連死も含めて、新型コロナが死者数の激増の最大の原因となった。

さて、我々は、この彼我の違いを、どのように受け止めるべきであろうか?
 
まず、我が国の死者数に関する上記の統計は1~10月までの数字であり、その後11月から年末にかけて新型コロナ感染者数が加速度的に増加している現状は考慮しなければならないだろう。12月末日に判明した東京都の感染者数は1,300人を超え、全国の死者数は11~12月の2か月で1,340人増えた

そのような状況を踏まえたとしても彼我の違いは際立っており、それは、上の新聞記事が分析しているように、我が国では、マスクや手洗い、アルコール消毒といった基本的な感染症対策がかなりの程度効果を発揮したのに対して、米国では、そのような対策が必ずしも徹底されていなかったことが一因であった可能性が考えられる。(もちろん、全く別のファクターXもあるのかもしれない。)

このような彼我の違いについて、日本人は「民度のレベルが違う」と発言した某大臣が批判を受けたが、「民度」が高いとか低いとかいった問題ではないにしても、そもそもハグや握手等の日常的な濃厚接触がもともとさほど得意な方ではなく、概して潔癖症であるといった我が国の国民性は、ある程度関連がありそうに思える。

我が国における基本的な感染症対策については、感染流行の第1波であった昨年5月、非常事態宣言の下で、かつての専門家会議が「新しい生活様式」と称する提言を発表した。
そこには、食事の際には横並びで座り、会話は控えるなど、余計なお世話と言いたくなるような、個人の自由に関わることまで含まれていて、強い違和感を覚えた記憶がある。
私自身は、提言に示されたような対策は、非常時においてはある程度やむを得ないものであるとしても、あくまでコロナが収束するまでの一時的なものであって、これを「新たな日常」などとは絶対に呼びたくないと思っていた。
ところが、コロナウイルスがなかなか沈静化せず、むしろ、ますます猛威を振るう中で年を越えるに至り、ふと気づくと、マスク着用や手洗いを励行し、外での会食は極力控えるといった感染対策は、もはや何ら違和感のない確実な「日常」となっていた。

さて、今の段階ではいかにも気の早い話であるが、コロナ収束後に、日本人の行動様式は、どのように変化するだろうか。
コロナ前の日常に戻っていくだろうか、それとも、もはやかつての日常を取り戻すことはないのだろうか?

2020年に日本人の死者数が減少したことを伝える上記の新聞記事は、私にとって、そのような問題意識をあらためて突きつけるものとなった。
というのは、手洗いやマスク着用などのコロナ対策が、(コロナのみならず)他の感染症予防にも功を奏したという「成功体験」は、日本人の意識の在りようになんらかの痕跡を残さずにはおかないだろうと思うからだ。

もっとも、これほど感染が拡大しているにもかかわらず、蛮勇なのか、無神経なのか、それこそ距離(ディスタンス)を取りたくなるような振る舞いに及んでいる人々、早い話が感染対策に全く無頓着と感じられるような人々もいる。それらの人びとと、厳格・細心に感染対策を守る人々との溝が、少しずつ広がっているような気もする。

私が危惧するのは、我々の社会の中のそのような溝、あるいは分断と言えそうなものが、コロナ収束後に顕在化してしまうのではないか、ということだ。

一方の人びとは、コロナ収束後も感染症予防に努め、日常的にマスクを着用して、消毒用アルコールを携帯し、多人数での会食はなるべく控え、可能な限り混雑した場所を避けて生活する。
もう一方の人びとは、当然、コロナなどなかったように、以前の生活に戻っていく。
そのような状況で、もし、前者が後者を警戒し、非難の眼を向け、場合によっては攻撃するとしたら、また、後者が前者の生き方を尊重せず、故意にせよ無意識にせよ、その「聖域」を犯そうとするなら、我々の社会は、異なる生活スタイルの間での衝突や摩擦という思わぬリスクを抱え込んでしまうのではないだろうか?

考えすぎだろうか。
しかし、いずれにしても、他人どうしが袖すりあう日常の中で、コロナ以前のような親身な「濃厚接触」を回復することが困難な社会となるとすれば、それはけっこう重大な問題であるように思うのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?