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カズオ・イシグロ『充たされざる者』

カズオ・イシグロはすごい作家だ、とつくづく思う。
長編第四作『充たされざる者』(古賀林幸訳、原題:The Unconsoled)に度肝を抜かれた。

とにかく長い。文庫版で本文939ページ。
だが、度肝を抜かれたのは長さのせいばかりではない。
この長さをとおして描かれる時間の経過は実際には三昼夜ほどにすぎない。
極端なまでに遅延し、引き伸ばされつつも凝集された濃密な「時間」に度肝を抜かれたのだ。これはまるでドストエフスキーの小説のようだ。

どのような小説なのか?
出版社による概要説明は次のとおり。

世界的ピアニストのライダーは、あるヨーロッパの町に降り立った。「木曜の夕べ」という催しで演奏する予定のようだが、日程や演目さえ彼には定かでない。ただ、演奏会は町の「危機」を乗り越えるための最後の望みのようで、一部市民の期待は限りなく高い。ライダーはそれとなく詳細を探るが、奇妙な相談をもちかける市民たちが次々と邪魔に入り……。実験的手法を駆使し、悪夢のような不条理を紡ぐブッカー賞作家の異色作。

(ハヤカワ・オンラインによる「商品詳細」)

訳者の古賀林幸が「あとがき」の中で、「永久に目的地にたどりつけないカフカ的悪夢の世界」と書いている。うまい表現だと思った。

主人公は周囲の登場人物の果てしない饒舌を延々と聞かされ、虚しいコミュニケーション(むしろディスコミュニケーション)をひたすら積み上げ、その結果、どこにも行き着きはしないのだ。

そのような小説について詳細なあらすじや登場人物たちが織りなす人間模様を説明することは非常に困難であるし、またさほど意味がないだろう。

私がここで書いてみたいのは、(これまでもこだわり続けてきた)イシグロの独特な「語り」の手法についてである。

この作品も、例によって、主人公(ライダー)による「一人称の語り」で綴られる。
「ああ、また一人称だな」と読み始めるのだが、ほどなく異変に気付く。
最初の異変は時間の遅延である。
ホテルでチェックインを済ませたライダーは、自室に向かうためにポーターとともにエレベーターに乗りこむのだが、その移動中のエレベーターの中でライダーはグスタフという名の老ポーターから数分とも十数分とも思われる長い身の上話を聞くのだ。
(ありえないではないか!)

さらに驚いたことに、老ポーターが客室の中を案内している間、ライダーによる「語り」はグスタフの意識の中に入り込み、彼の最近の心配事を詳細に暴いてみせるのだ。

……それから彼(グスタフ)が部屋のあちらこちらを手で示しながら説明を続けていたとき、ふと頭に浮かんできたことがあった。これほどプロ意識に徹し、わたしに快適なホテル生活を送らせたいという切なる願いをにじませながらも、グスタフの脳裏から一日じゅうずっと離れなかったことが、いま再び彼の心のなかで頭をもたげてきていたのだ。つまり、自分の娘とその幼い息子のことを、また心配していたのだった。
 数カ月前にその話が出たとき、グスタフはただ単純に、大きな楽しみが得られるとしか考えていなかった。……(以下、長々とグスタフの悩みごとの詳細が述べられる。)

カズオ・イシグロ 古賀林幸訳『充たされざる者』ハヤカワepi文庫 pp.28-29.

このような不可思議な「語りの越境」は、老ポーターの身の上に限ったことではなく、ほかの登場人物についても同様である。
ライダーは、自分が存在しない部屋のなかで交わされる人物たちの話を聞き、逆に屋内にいながらにして街なかの人物の様子を描写し、自分が到着する前にパーティー会場で起こった出来事を思い返したりする。

「語り」に現われる奇妙な超越は、人間の意識や時空を飛び越えるだけでなく、空間そのものさえも歪めてしまう。
例えば、ライダーが連れてこられたパーティー会場は、ホテルから車で少なくとも数十分はかかったように思われたのに、後に気がついたら当のホテル施設の一部であったのだ。

これはどういうわけなのだろう?

以下は、個人的な解釈に過ぎないのだが……。

イシグロは明らかに「一人称の語り」を好む作家である。
繰り返しになるが、この作品もまた基本的に主人公のライダーを語り手とした一人称の作品である。
しかし、「一人称の語り」には自ずと制約がある。
描写の対象は語り手が存在する(した)時間と空間の内部に、そして語り手の意識に投影された世界の範囲内に限定されざるを得ない。
そうした制約にイシグロは不自由さ・物足りなさを感じたのではないだろうか?

おそらく、この小説の構想は、そのような「一人称の語り」の常識の枠に納めようとするには、あまりにもスケールが大きすぎたのだ。

そこで、作品の「語り」の構造として、ライダーによる一人称の語りと「全知全能」の作者による三人称の語りとが混然一体となった形式が生み出されたのである。

ふだん一人称で書くイシグロは、この作品では「語り」の制約を軽々と飛び越えるような、柔軟で、縦横無尽な手法を実現した。その際、神のごとき創造者としての特権を利用して、少々羽目を外して遊んでしまった部分もあったかもしれない。

それでいながら、作品の中で絶えず転換し、融合する「語り」はきわめて円滑で自然であり、物語自体もたいへんスリリングで面白い。この点でも、あらためてイシグロはすごい作家だと思わざるを得ない。

(訳者の古賀林幸氏の功績が大きかったことも強調しておかなければならない。あとがきでは苦労の一端がごく控えめに述べられているが、この大長編をよくぞ見事に訳し切ったものだと思う。)

さて、ここでひとつ疑問が生じる。
そもそも「一人称の語り」に納まりきらないようなスケールの大きな作品であるなら、なぜ最初から三人称で書こうとしなかったのか?
なぜイシグロは、それほどまでに「一人称の語り」にこだわるのだろうか?

私なりのひとつの答えとして、『浮世の画家』の感想を綴った記事の最後の一文を、ここでも持ち出すことができるかもしれない。

それは、イシグロにとって「一人称の語り」とは、語り手の意識と現実とのギャップ、すなわち人間にとっての世界認識と現実世界との「ずれ」を巧みに際立たせるために最適な手法であった、というものである。
そのために「一人称の語り」によって固定される確固たる「視点」が必要であったのだ。

また、読者にとっても、作品の世界に自然に入っていくために、作品の芯となるような「語り手」、いわば読者自身の「分身」となりうる視点人物が存在することは、きわめて大事なことだろう。実際に、この作品を読みながら、私にはあらためてそのように思われた。

ここまで作品の形式・手法の観点から述べてきた。
それでは、この作品のテーマはなんであったのか?
この作品を通じて作者は果たしてなにを言いたかったのか?

常に周囲の状況に流されてしまう人間の自由意志の脆弱さか?
一方通行の応酬にしかなりえない人間どうしのコミュニケーションの不全についてか?
相手からは絶対に得られないものを互いに求めあってしまう人間関係の不幸だろうか?
はたまた名声というもののむなしさ、はかなさなのか?(この点で、ブッカー賞の受賞により文壇の頂点に上り詰めたイシグロはライダーにわが身を重ねていたのかもしれない。)

いずれにせよ、それは読者一人ひとりが自ら感じとればよいのだと思う。

私自身は、ライダーが過ごした濃密な三昼夜はある意味で人生の縮図であるように感じた。

「永久に目的地にたどりつけないカフカ的悪夢の世界」

それは、決して「出口の見えない閉ざされた世界」ではない。
むしろ、主人公が焦りや苛立ちに見舞われるたびに、不思議と決まって出口のドアが現れる。
ライダーは、今度こそ問題が打開されることを信じて、導かれるようにドアを通り抜ける。
だが、その出口は、実は新たな混沌と紛糾の世界への入口にすぎなかったことが分かるのだ。
そのような期待と失望の果てしない交錯が繰り返されていく。

つまるところ、「生きる」ということは、そういうものなのかもしれない。









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