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ドストエフスキーと不死―『作家の日記』より⑧―

自殺した唯物論者の考察

『作家の日記』1876年10月号に『宣告』と題された四ページほどの短い文章が掲載されている。
内容は「退屈のために自殺したある唯物論者の考察」であり、読みごたえのある「掌編作品」となっている。

この唯物論者の男は、自分を「意識あるもの」として創造した自然を容赦なく糾弾する。

……自然はいかなる権利をもって、人の承諾も得ないで、おれを意識あるものとして生み出したのか? 意識するものとは、とりもなおさず、悩むもののいいだ。が、おれは悩みたくない――なぜなら、悩むことに同意するはずがないからである。……(岩波文庫版『作家の日記』(三)、一八七六年十月、第一章。以下、引用はすべて米川正夫訳)

そもそも何のために「おれ」は創造されねばならなかったのか?
自然は、「おれ」の意識を通じて、なにか「全体としての調和」とやらに参加せよと「おれ」に告知し、「全体としての調和のために苦悩を受け入れ、生きることを承諾しなければならない」と示唆するが、「おれ」は承諾できない。

この世で幸福を感じ、生きることに賛成するものがいるとすれば、それは、意識が十分に発達していない動物に近い連中に過ぎない。これらの連中が喜んで生きようとするのは、動物同様に、「食い、飲み、眠り、巣をつくり、子どもを生むこと」を条件とする場合である。それは、人間どうしが争い、略奪しあうことを意味する。

仮に、理性と科学と道徳の進化・発展を通じて、争い、略奪しあうことなしに、それらの生存欲求を満たすことが可能となるような社会を構築しうるとしても、もし、生が有限であることを意識が告げているとすれば、一体何のために苦労を忍んで生きねばならないのか?

……もしおれが草花か牝牛ででもあったなら、なるほど享楽も得たであろう。が、今のように、のべつ自分で自分に問題を出していたのでは、たとえ近きものに対する愛を感じ、人類からも愛されるという最高直接な幸福を享受しているにもせよ、おれは幸福であることはできぬ。なぜなら、明日にもそれらのすべてが無に帰してしまうことを、承知しているからである。……(同上)

もし、「おれ」が死んでも人類が永久に残るのであれば、多少は気休めにもなるだろうが、周知のとおり地球にも人類にも期限があり、その存在は悠久の時間から見ればただの一瞬にすぎず、やがてことごとく無に帰してしまうのだ。
このような自然の法則には「人類に対する深甚な軽視」が含まれると「おれ」は考える。そして、そこに「誰も責任者がいない」ことが「おれ」には我慢がならない。

なによりも愚劣なのは、なぜ生きねばならないのかという「問い」を立てるのも「おれ」の意識ならば、それに答えるべく自然から任命されているものも「おれ」の意識でしかないということだ。そのような喜劇を屈辱と考えるがゆえに、「おれ」は、次のような結論で「考察」の幕を閉じる。

 それがゆえに、おれは原告と被告、裁判官と犯人のまがいなき権能を行使して、かくも無作法にずうずうしくおれを苦難のために生み出した自然を、おれとともに破滅すべしと宣告する……が、おれは自然を滅却することができないから、おれ一個を滅ぼす。ただし、それは単に、責任者のない暴虐を忍ぶ味気なさから、のがれるためにすぎないのだ。(同上)

『宣告』に対する酷評

10月号に掲載された、いかにもドストエフスキーらしいこの小品を、私は、たいへん興味深いものとして読みながら、その場は、あまり気にも留めずに読み過ごしていた。

それを今回ここで紹介するのは、この内容に噛みついた批評家の文章がある雑誌に掲載されたことを受けて、ドストエフスキーがあらためてこの小品に込めた意図を説明しているからである。

『作家の日記』1876年12月号によれば、10月号に掲載された『宣告』は小さからぬ反響を呼び起こしたらしい。
その中で、ドストエフスキーは『娯楽』という週刊誌に掲載されたエンペ氏なる批評家の小論文をとりあげて、引用している。(エンペ氏自身が、小論文が掲載された号をわざわざドストエフスキーに送ってきたものらしい。)

エンペ氏は、『宣告』の語り手である唯物論者の考察を評して、あえて語るまでもない「周知の事実」であるとし、そのような文章の出現を「笑うべきみじめな時代錯誤」とこきおろす。

そして、現代は「鉄のごとき観念」や「積極的意見」、さらに「『なんとしても生きねばならぬ!』という旗幟(きし)」を担うべき時代であるから、「考察」で展開されたような俗悪で愚劣なヒロイズムに対しては、今日だれ一人注意を払うものはない、このような考察つきで死んでいく自殺者は、「エゴイスト」「虚栄家」「人間社会の最も有害なる一員」であって、何らの憐憫に価しない……、と口を極めて非難する。

ドストエフスキーは、これを一読して「がっかりしてしまった」と述べている。
そして、紙面の節約のためエンペ氏に直接答えることはしないが、その代りに、『宣告』を書いた目的を自ら明らかにする必要はあるとして、12月号において補足説明を行っている。

「霊魂の不滅」に対する信仰

『言葉だけの確定』と題されたドストエフスキーの補足説明は、冒頭でいきなり核心を突く。

 私の小文『宣告』は、人間生存の根本的な最高思想、――人間霊魂の不滅を信ずることが欠くべからず、避くべからざる緊要事である、という点にふれているのである。「論理的自殺」で滅びゆく人のこの懺悔の裏打ちは、自分の魂とその不死を信ずることなしには、人間の生存は不自然であり、考えることもできないほどたえがたいものであるという結論が、すぐその場で必要なことである。そこで私は、論理的自殺者の公式を明瞭に表現し、発見したような気がしたのである。……(同(三)、一八七六年十二月、第一章)

ドストエフスキーのもってまわった表現は若干分かりにくいが、その意味は明確だ。
すなわち、唯物論者の男は、自らの「霊魂の不滅あるいは不死」に対する信仰の欠如ゆえに生き続けることに耐え得なかったのであり、そのような信仰の欠如を前提とすれば、彼の自殺は論理的公式に導かれた必然的な「解」であった、ということである。

ドストエフスキーは、不死への信仰なしに生きることに同意するものは「ただ下等動物に似た連中だけ」であると断言する。
これらの人びとが、「動物として生きること、すなわち「食い、飲み、眠り、巣を作り、子どもを産む」ために生きることに同意」するのは、「自覚の発達が遅れているのと、純肉体的な要求の発達しているおかげ」に過ぎない。そのような見解において、ドストエフスキーは自殺した唯物論者と完全に一致する。

ところが、この「霊魂の不滅」という「人間存在の最高思想」に対する不信がロシアの知識階級に蔓延しつつあるとして、ドストエフスキーは憂慮の念を表明する。

……私一個に関して言えば、わが将来、それもきわめて近い将来にとっての最も恐るべき杞憂(きゆう)の一つは、ほかでもない。私の見るところをもってすれば、ロシヤの知識階級のきわめて多くの、いな、あまりに大きな部分に、一種特殊な、奇妙な……はて、なんというか……宿命によって、おのれの霊魂とその不滅に対する完全な不信が、異常な加速度をもって、しだいに深く根を張っていくことである。……(同上)

ドストエフスキーは、このような不信仰、さらには無関心が、すでに「他のヨーロッパ諸国民と比較して、ほとんどロシヤの特性にさえなっている」と述べ、そのような「無関心主義」に重ねて警鐘を鳴らそうとする。

……最高の思想なくして、人間も国民も存在することはできない。ところで、地上における最高の思想はただひとつしかない、すなわち人間霊魂の不滅に関する思想である。なぜなら、人間の生活が依存しているそれ以外のすべての「崇高な」人生思想は、ただこの思想から流れ出るものだからである。……(同上。強調は本文では傍点)

論証の先送り

このように『言葉だけの確定』においては、重要なテーゼが繰り返し述べられる。すなわち、「霊魂の不滅」こそが「地上における最高の思想」であり、一切の崇高なものの唯一の源泉である、というテーゼである。

しかし、このテーゼの正否について、ドストエフスキーはただちに論証しようとはしない。

……今のところ私は議論にわたらず、ただ言葉だけのうえで自分の思想を提出しておく。一度で説明は困難だから、ちょっとほのめかしておくほうがよかろう。さきにゆっくり暇があろう。(同上)

文章のタイトルである『言葉だけの確定』とは、この「論証の先送り」を意味するものだ。

論証を先送りしたままで、ドストエフスキーは、一貫して、霊魂の不滅、そして不死に対する信仰が、人間の生存のために最も重要な前提条件であること熱を込めて主張する。
そして、不死への信仰という「人生の最高意義」の喪失は「疑いもなく自殺を招来する」のであり、そこから「私の十月号の論文(『宣告』のこと)の教訓が生じてくる」のだとして、次のように『言葉だけの確定』を締めくくる。

……すなわち、「もし不死に対する信念が、人間の生存にとって、しかく必要なものであるとすれば、それは当然、人類の正常な状態であるわけである。そうとすれば、人間の霊魂の不滅そのものも、疑いなく存在するわけである。」手っとり早くいえば、不死の観念、――これこそ生命そのものであり、生きた人生であり、人生最終の公式であり、人類にとって真理と正しい意識とのおもなる源泉である。これがあの文章の目的であって、あれを読んだ人は、誰でも否応なしに会得するはずだと、私は思っていた次第である。(同上)

ドストエフスキーは、「今は論証しない」と表明しておきながら、文章の最後で「論証じみた」議論に及んでしまっている。
つまり、「不死に対する信念」が人間にとって正常な状態であるとすれば、それは必然的に「霊魂の不滅」が存在することの証明である、と言うのだ。

これは「卵が存在する以上、すでに鶏は存在していたに違いない」という主張となんら変わりのないものであり、これが説得力を持つ論証と決してなり得ないことは言うまでもない。

しかし、「不死に対する信仰こそが正常な状態であるならば、不死は在らねばならない」という因果関係の中には、まさに、ドストエフスキーの偽らざる本音があるように思うのだ。

なぜなら、信仰とは「論理」ではなく、「直観」であり「祈り」であろうから。

おそらく、ドストエフスキーにとって、この因果関係は、次のようにも置き換えられるだろう。
もし、神の存在を信ずることが正常な状態であるならば、神は存在しなければならない。

理解ではなく、共感すること

ドストエフスキーは、また、「人類に対する愛」は、霊魂の不滅に対する信仰としか共存し得ないとも述べている。

 人類に対する愛は、一般にいって、――思想としては、人知にとって最も理解しがたい思想の一つであることを、私はあえて断定し言明する。つまり、思想としてである。それを是認しうるのはただ感情のみである。しかも、その感情も、人間霊魂の不滅に対する信念と共存する場合においてのみ可能なのである(これもやはり言葉のうえだけのことにしておく)。(同上)

霊魂の不滅に対する信仰が「論理」ではなく「直観」であり、人類に対する愛が「思想」ではなく「感情」であるならば、それらの直観や感情は、「理解」によってではなく、同じように感じ、体験することでしか共有できない。

ドストエフスキーの最も重要な作品群において、作家は、自分の全存在をかけて、「地上における最高の思想」に対する読者の「共感」や「共体験」を呼び起こそうとしたのかもしれない。

◇  ◇  ◇

『作家の日記』を読みすすみながら、私は、行く先の分からぬ旅をしているように感じている。もうしばらく、ゆっくりと旅を続けていこう。

※ 画像はロシアの画家イリヤ・レーピンの「ヤイロの娘の復活」(1871)

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