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「読み終えたくない」という想い

読みすすむにつれ、結末が近づくにつれ、このまま読み終えてしまうのが惜しいような、だんだんと残りが少なくなっていくのが寂しいような、そんな切ない読書体験をしたのは、果たしていつ以来だったろうか?

谷崎潤一郎の『細雪』を読みながら、そんな感慨を味わった。

昭和11年から16年にかけて、戦争の影が次第にしのび寄る世相を背景として、大阪船場の旧家・蒔岡まきおか家に生まれた美しい四姉妹の日常を描いた物語である。
「美人姉妹」と言っても、長女の鶴子と二女の幸子はすでに婿養子を取って、それぞれ本家と分家を為し、三女の雪子はそろそろ三十になろうというのに、未だ良縁に恵まれずにいる。そして四女の妙子は自由きままな生活を謳歌する。

雪子と妙子は本家の当主である義兄の辰雄との折り合いが悪いこともあって、日常的に分家を生活の場とし、なにかと貞之助・幸子の夫婦をたよりにもして、いきおい幸子以下の三姉妹が行動をともにしがちだ。(その点、鶴子は孤独で、気の毒でもある。)
そのような状況設定もあり、多くの場面が、主として幸子の視点を借りて描写される。

物語は、なかなか進まぬ雪子の縁談と妙子が巻き起こす騒動とを軸として展開する。つつましやかな日本美人の雪子と勝ち気で活動的な妙子の対比は、まさに「静」と「動」だ。

実は、つい最近のことだが、私はいちどこの小説にとりかかろうとして挫折している。

「こいさん、頼むわ。」
小説は、冒頭、この有名なセリフで始まる。
和装で外出の身支度を整える二女幸子が、後ろ襟にお白粉を塗ってほしいと四女妙子に呼びかける場面である。
最初、私は、この「こいさん、頼むわ。」をどのように読んだらいいのかわからなかった。
抑揚(イントネーション)がつかめなかったのだ。
そのまま、なんとなく物語に入っていくことができなかった。

その後、ネット配信を利用して市川崑監督の映画『細雪』(1983)を観た。
映画の中で、実際に幸子(佐久間良子)が妙子(小手川祐子)に「こいさん、頼むわ。」と呼びかけるのを聴いたことで、この抑揚の問題が解決した。
その結果、私は安心して、あらためて小説を読み始めた、という次第だ。

それほどに、この作品の中では、四姉妹が発するものを中心とした関西言葉、とりわけ女言葉が重要な役割を果たしている。
姉妹たちの暮らしぶりや階級意識に、時おり鼻持ちならないものを嗅ぎつけつつも、彼女らが繰り出す言葉の官能的な美しさ、豊饒さには酔いしれずにいられなかった。

この小説を日本語で読めるということ、つまり日本人(あるいは日本語ネーティブ)であることは、なんと幸せなことであろうか!

東京で生まれ育った谷崎が、震災後から晩年にかけての三十数年、関西を生活の拠点としたという事実も、作家自身の、関西の言葉、風土、文化に対する深い愛着を示すものなのだろう。


冒頭の話に戻るが、「読み終えてしまうのが惜しい」という気持ちが何を意味するのか、考えてみた。

私は、なぜこの小説に、そのような気持を抱いたのだろうか?

おそらく、私は、登場人物たちと喜怒哀楽を分かち合いながら、彼らとともにこの物語を深く共有するに至ったのだろう。
そして、その「物語の世界を共有する」という喜びを終わらせたくなかった、より長引かせたかったのだろう。

しかし、そんな願いも空しく、小説は、下痢が治まらぬまま婚礼を迎えようとする雪子の描写とともに、突然のように終わってしまう。
小説が終るのは当たり前の話だ。終わらない小説などというものはない。未完の小説は未完のまま終わっているに過ぎない。

だが、仮に物語の世界が「別の次元の現実」であると考えるならば、小説が終っても、その登場人物たちは、そのまま異次元で生き続けるのだ。

婚礼を終えた雪子は、伴侶とともに新婚生活を始め、そして様々な新たな問題にも直面するだろう。
自身の奔放さが招いた過酷な運命から深い痛手を負った妙子は、徐々に立ち直り、新たな希望を見いだそうと前を向くだろう。
幸子は、妹たちが家を出て、暫くは寂しい思いをするだろうが、夫や娘と過ごす日常に慣れ親しんでいくだろう。

登場人物たちは生き続けるが、しかし、読者はもう彼らの人生に立ち会うことができない。
物語の世界にどんなに深い愛着を持ったとしても、その愛着はいつか断ち切られるしかない。小説の次元から追放されてしまうほかはない。
そこに深い哀惜の想いが残るのだ。

そのように考えたとき、ふと、物語を読み終えることは、ひとつの「死」を経験することに似ているのではないか、と思った。
小説が終わるとともに、読者は、登場人物たちに別れを告げなければならない。
自分にとって親しく、いとおしい人物たち(一方通行の想いであるが)が生き続ける世界から、読者は静かに立ち去って行かなければならないのだ。

「小さな死」がもたらす、せつない哀惜の想い。
いささか無理な連想のように思われただろうか?

いずれにしても、読者がそれほどまでに深く強い愛着の想いを小説の世界に持ちえたとすれば、その作品がまぎれもなく珠玉の名作であることの証と考えて間違いないだろう。


いま気がついた!
こうした感情を巷では「〇〇ロス」というのだった。


※ Jan HaererによるPixabayからの画像を使用

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