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#73 新渡戸稲造と賢治の相似形 その1【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その11】

(続き)

○ 新渡戸稲造と賢治の相似形 その1

宮沢賢治が生涯を過ごした花巻や岩手ゆかりの人物を調べると、賢治にとって、アメリカやキリスト教が身近な存在となったきっかけと思える人々が浮かび上がります。

中でも、アメリカに留学経験のあるクリスチャンで、国際的に活躍した新渡戸稲造は、賢治にとって重要な人物ではないかと思われます。
稲造は花巻にルーツを持つ新渡戸家出身で、現在でも宮沢賢治記念館から車で5分ほどの場所に、花巻新渡戸記念館があります。稲造自身は盛岡で生まれましたが、その祖父・新渡戸伝は、花巻から、現在の青森県十和田市の開拓事業に出向き、その際、宮沢賢治の祖父である宮澤喜助が会計役として同行したと言われています。稲造は早くに父・十次郎を亡くした後、父の弟の太田時敏の養子となり、養父・時敏が花巻を管轄する稗貫郡長に任命された際には、花巻に住んでいたとも言われ、その後も岩手や花巻を度々訪問しています。

賢治が盛岡中学1年だった1909年、当時、旧制一高(東京大学教養学部の前身)校長を勤めていた新渡戸が盛岡中学の生徒を前に講演しており、賢治は一学生として、「武士道」が高い評価を受け、岩手を代表する有名人だった新渡戸を見ています。また、2人は同じ1933年に亡くなり、亡くなった月もわずか1ヶ月違いでした。

新渡戸は札幌農学校の教授時代に、昼間は家庭の事情などで学校に通うことができない子どものために「遠友夜学校」を開きましたが、賢治の「羅須地人協会」は、新渡戸の「遠友夜学校」を思わせる取組みでもあります。また、新渡戸から札幌農学校で学び影響を受けた人物に、自分の農場を小作人に解放した有島武郎がいますが、賢治の作品「黒ぶだう」は、有島が1920年に発表した童話「一房の葡萄」を思わせる内容となっています。

(続く)

2023(令和5)年10月3日(火)
(2023(令和5)年10月15日(日)修正)

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