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他人の視線はさよなら

数年間で進歩できたことがあります。
『他人への関心』『他人からの評価』
この2つのストレスを感じなくなり胃が痛くならなくなりました。引きこもりだったときには恐怖の象徴だったものなので外に出ることが楽しくなりました。

友人からのすすめ

渡航するようになり友達ができて中指を自然体で立てる癖がつきました。はいはいさーせん!みたいな仲間のノリを覚えられたので日本人の無言の圧力には会話やジェスチャーで回避することができるようになったのです。視線を感じるなあと思ったりして嫌な気持ちになることが引きこもり時代にはありとても苦しかったのです。

視線を感じたりして気持ち悪いなと思うときは相手の方に中指を立てて『Fuck off』と独り言を呟くようになりました。何見てきてるんだ?というと長いので、Fuckぐらいが丁度いいことが分かりました。理由を考えてみたのですが『お前に興味なんてないのに何みてきてるんだ。視界から消えろ』を一言で片付けられるショートカットになるからだと思います。

他人の評価1.自分の評価99

謙遜という感覚を捨てるまで苦労しました。
これほど邪魔な感覚を植え付けられていたら、そりゃ生きてて苦しいわと感じたのです。他人の評価は打算的に必要になることもありますが自己評価があってこそだと思います。

具体的にどんなイメージをするかというと
褒められて当たり前を常にイメージする感じで何にでもチャレンジします。自分のできることが増えれば増えるほど行動力にも繋がることが実感できました。

謙遜は美しくありません

引きこもり時代に感じた『日本人嫌い』の正体はこいつだったのかもしれません。謙遜とかいう意味不明な洗脳です。

謙遜は会話がダラダラするし相手に合わせることの無理強いに繋がると感じています。よく使われている『私なんて、私なんかが』みたいな表現は出来ない理由を言い訳してるだけだったんだなと思います。それを共有させようとしてる文化は洗脳だと思います。

私だから出来るんだよね。もっと褒めて。
そう言える人たちが周りに増えて人間は美しいんだなと思えるようになりました。

空気は吸うものです

空気を読めないことを非難されて萎縮してしまうことがありました。共有する時間とか仕事の合理性のことが空気なんだということが分かり空気は吸うものだと思えました。

日本語はすごく分かりづらいことが多すぎなんですよね。他人との違いや、場違いなこととかのことを指してるならば、それは多様性を受け入れられなさすぎ人間の問題なので大丈夫!

場違いなこと進んで出来る人は素敵ですから、それは空気を利用したアートだと思います。

眠くなったので続きはまた別の記事に!

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