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うつ病になった私の一年間

はじめに

私は今現在、うつ病でニートを満喫している。

うつ病になる経緯

私がうつ病になったのは、今から約1年前、2022年の2月、新卒で入職した会社で3年目を目前にしていた寒い頃だった。

その頃の私はそろそろ3年目とあり、気持ち的にとても意気込んでいたし、とてもやる気に満ちていた。
けれど同時に今の仕事を、ずっとこのままやっていくのかなという不安感を抱いていた。

と、いうのも、私が入職した年はちょうど日本でもコロナウイルスが流行り始めた頃だった。
その時はすぐにこの感染症も収まるだろうと考えていたが、そんな上手くいくはずもなく、コロナ禍はゆうに3年を越えた。そんなコロナ禍に就職をした私は、コロナ禍で変わってしまった生活に順応できずにいた。

「いつまでこの生活続くの」

そんな言葉がポロリとこぼれた。

きっとその時には既に心は折れていたし、うつ病へ足を1歩突っ込んでいたのではないかと思う。

また、なれない職場環境にもあくせくし疲労感がつのる毎日を過ごしていた。

1年目、2年目と過ごしてきていたはずの職場であったが、なんとなく言い出せない雰囲気や、言いたいことを我慢しなくてはいけないと感じるような場面がいくつもあり、この職場に自分は向いていないのかと、何度も頭を悩ませた。
けれど、今すぐに退職をできない、理由があった。

それは、就職活動中にこの会社が自分の運命だと思ってしまっていたからだ。

私の就職活動はとても進みが遅く、通っていた専門学校で先生たちの頭を悩ませていた。
就職先が見つからなければ、最悪ニートやフリーターになっても良いような状態であった。

そんな時に、新卒で入職をした当時の職場に出会い、職場見学では理想すぎる働き方に思わず涙してしまった。

そんな思い入れの強い職場だからこそ離れがたく、愛情深く思っていた。

だが、実際働いてみるのでは自分の足りなさと不甲斐なさと、周りの先輩方と自身の力量にギャップを感じていた。

もっと長く務めていればこのギャップも埋まるだろうとわかっていた。未熟であるのは新卒で入職をしたので当たり前で、そんなことは誰もわかっていたことだった。
けれど、当時の私にはそのギャップを埋める手立てが今すぐ欲しかった。
即座に埋まらないギャップに困惑をした。

どうしたら仕事が上手くいくかと前向きに考えていたはずの悩みも、いつしか「上手くやらなくてはいけない」という考えに変わっていき、知らずに変化した悩みは自身を苦しめていった。

自分で自分を苦しめていることに気づけていない私は、「また今日もダメだった」「また仕事が上手くいかなかった」「もっと上手くやりたいのにできない」「職場に迷惑をかけている」と、高すぎる理想に嘆くばかりだった。

そんな悩める毎日を過ごしていると、体に不調がではじめる。
止まらない思考に眠りが浅くなってくるといったところから段々と始まっていた。
いつしかそれは、食欲減退、謎のイライラ感と集中力の欠如といった具合に徐々に身体にいくつも現れ始めた。

不眠が続いた頃は疲れているのだと、枕を変えてみたり、ゆったりした音楽をかけて就寝してみたりとあらゆる睡眠によく聴くといわれる技法をとってみた。

しかし、どれも有効とは思えずあえなく断念した。

そうこうしているうちにも仕事量が段々と増え、眠れない毎日が当たり前のようになってきていた。

誰かに相談しようか、そう考えた時もあったが、当時の私は誰かに相談することがとても苦手であった。
自分の話をすることはそうだが、そもそも自分が何に対して困っているのかが、言語化できずにいた。それは長年なんとなくある悩みの種であった。
だが、あらゆる困難も自信で解決が出来ていた。自身で解決してきたという過信は、同時に人に頼ることへの苦手さの象徴でもあった。

そんな自分の得意が不得意であることに気づけていないわたしは、さらに自分を苦しめていく。

自分ならできるという過信は仕事面でも出てきていた。
私の仕事をする上でのモットーは「頼まれたら断らない」であった。
なるべく断らずに職場の先輩方の負担を減らしたいと、新人ながら一丁前にそんな心配をしていた。
先輩方からすればそんなことを新人に心配されてもありがた迷惑な話だと今では思う。
けれど、当時の私は人の負担を自分が背負うことで、その人が楽になったらいい。と、当たり前のようにそのように考えていた。
だからこそ常に積極的な姿勢は見せていきたかった。
けれどそれが空回りの原因になっていた。

断りきれずに抱えた仕事が上手く回らずにとうとう私は体調を崩した。

その日の晩、私が明確にうつ病になった日である。

その日の晩、抱えた仕事がとうとう終わらず家に帰ってきてしまっていた。その事がずっと気がかりで、家に帰ってからもお風呂に入っているときや夕食を食べている時でさえもその事を気にしていた。
布団に入り、また明日がんばろうと思い就寝したが、妙な喉の違和感を覚え夜中に目が覚めた。

コロナかもしれない。

その言葉が頭の中によぎった。
そして一瞬でパニックになった。
コロナになったらどうしよう、明日も仕事があるのに終わらないし何より職場に迷惑がかかってしまう。いつからコロナになってた?手洗いが上手に出来ていなかった?マスクも二重にしておけばよかった?
色んな不安が頭の中に充満し、それは涙となってあふれ出た。

深夜3時の出来事である。

話を聞いてもらおうと考え、泣きながら母を起こした。
けれど、10分たっても30分たっても1時間がたっても自分が何に不安がっているのか言語化ができなかった。
私の相談ができないが、本当に苦しい時にもできないことにショックを受けた。

涙が引いた頃に就寝をしたが、その日の朝も昨晩と同様に泣きながら起床をした。
夜に泣いたことでスッキリしたと思っていたが、それは心の崩壊の始まりで、起床時の涙も同じ理由であることは間違いがなかった。

その日2年目にして初めて体調不良で仕事を休んだ。
その日は一日涙が止まらなかった。
仕事を休んでしまった罪悪感と止まらない涙と押し寄せる不安感に心の中はぐちゃぐちゃになっていた。
今日を休めば大丈夫と思っていたが、翌日の朝も涙が止まらず、食事も喉を通らず、前日と同じように仕事を休んだ。
2日間も休んでしまったことに、この世の終わりかと思うほど絶望をした。
と、同時にこのまま消えてしまいたいと繰り返し思った。

結果として喉の痛みは夜には晴れ、熱もなくコロナでないという落ちつきであった。

コロナかもしれないという不安感も忘れながら、それでも泣き続ける私を見て母が一言「病院行ってみたら」と心配そうに声をかけてきた。
母の提案に「病院行く」と、返事をしたが今の自分の状態はなんだかよく分からなかったため、どこの病院に行けば良いのか分からなかった。
分からないことも母にいえず悩んでいると、母がスマホの画面を見せてくれた。

そこには「メンタルクリニック」と書かれていた。

そこで納得がいった。

今までの気持ちの不安感や謎につのるイライラ感は、精神の病気だと悟った。残念だった。
この残念だった。は、私自身、精神保健福祉分野を学んでいたのに、気づけなかったことに対して残念に感じた。

初めてのメンタルクリニック

母に近所のメンタルクリニックを勧められ、電話をした。電話受付で初診であること、いつ受診ができるかなど日程を簡単に取り付け電話を切った。
電話をする前も電話が混んでいて繋がらなかったらどうしよう、予約が取れなかったらどうしようとあらゆる不安で、半泣き状態で電話をした。
運良く、電話をした翌日に予約が取れたためそのまま自転車でメンタルクリニックへ向かった。

メンタルクリニックに行って初めに感じたことは、近所であるのにこんなところに病院があったなんて知らなかったことだった。
案外周りの景色を気にせず過ごしているようだった。

初めての病院、初めてのメンタルクリニックにかなり緊張しながら病院の受付を済ませ、問診票をひとつひとつ埋めていった。

驚いたことが内科や皮膚科の問診票よりも項目がとても多かったのと、受付で待つ人が想像よりも多かったことだ。
自分の住む町にこれだけ精神の障害や病気に悩む人がいるのだと初めて知ったことだった。

初めてのメンタルクリニックでの診察は、何を聞かれるのか不安と緊張で心臓が今にも飛び出してきそうだった。
つっかえながら、時には泣きそうになりながらも診察をしたことは記憶に新しい。メンタルクリニックの先生と相性が良いのかわからないが、とりあえず初診と変わらず同じメンタルクリニックに一年たった今でも通院をしていた。
私のメンタルクリニックまでの受診がスムーズなのは本当に極稀であると思う。クリニックによっては何か月も診察までにかかってしまうので、診察にかかるまでに心が折れてしまう人がほとんどだろう。

そんなこんなでタイミングよく受診できた私であったが、今後どうなるのか不安に感じていた。が、同時に何もかもどうでもよくなっていた。
消えてしまいたい、とさえ思っていた私はその当時生きることも苦しくなっていた。

初診での診断は、「抑うつ状態による仕事の休職」であった。
正直、やっぱりか。
と、いう気持ちと自分自身の症状に名前が付いたことに安心をした。

こうして私は、2022年の2月に無事、うつ病患者となった。

休職をする

症状発症から、初診まで一度も職場に顔を出していなったので、迷惑をかけたととても申し訳ない気持ちになった。
電話で職場のチーフに電話した時になんと言われるかドキドキだったが、いつもどおりのやさしさとゆっくりな話し方に少し安心感があったが、罪悪感で今にも頭から溶けてしまいたくなった。

そうして、職場に散々迷惑をかけた私は、仕事を休職し、療養期間に入った。

療養期間は一体何をしたらよいのかわからず、メンタルクリニックの先生に何度も「何をしたらいいですか」と尋ねたが、帰ってくる言葉はいつも同じで「何もしなくていいですよ」だった。
しかし、私の性格上何もしないということが大変苦痛であった。
何も予定がない、一日自分の休息のために過ごすということが療養期間でいまだに悩むことだ。

取り合えず、職場へ復帰した時のことを考え、起床時間は働いていた時間と同じ時間に起床をし朝ごはんを食べることにした。

けれど、最初の一週間ほどはよかったが、「何もしない毎日」に体が慣れてくると、朝の起床が難しくなっていき、過眠状態になった。
朝おきられないことが、またしても罪悪感となり、朝から泣きながら起床をする日々が続く。
この時点で私に必要だったことは、自分を許すことだった。

朝予定通りに起きられなくてもいい。
そう思える自分への心の器の広さが当時の私は極小であった。
人にやさしくするように、自分へ優しくすることが課題だったが、当時の私にはそのことがとてつもなく難しく、習得するまでに時間を要した。

毎日泣いてる私は、これでは身が持たんと予定を作ることにした。

「とりあえずの毎日の過ごし方」
と、名前を付け、一日の簡単なスケジュールを組んだ。
9時から10時に起床をし、10時から14時の間にストレッチと散歩、14時から16時に部屋の片づけ、18時に夕飯づくり…

こんな感じで大まかにスケジュールを組んだ。
これ通りに過ごすのでもいいし、できなくてもいいと、とりあえずの名目でやることを決めた。

何もしないことが罪悪感になるのであれば、逆に予定を作ることを選んだ。
これが良いか悪いかはいまだにわからないが、予定を確認しながら過ごす毎日は何かをすることが出来たこともあり嬉しく感じた。

こんな過ごし方をしていて3か月、そろそろ職場に復帰はどうかと職場とそういった話になった。
正直、良いかどうかはわからなかったが、メンタルクリニックの先生と相談をし職場復帰に踏み込んだ。

復帰当日は、新卒で初めて職場に行った時の気持ちのようで、とても緊張をした。
「職場の皆に謝らなくちゃ、ご迷惑かけてすみません、もう大丈夫です。
って言わなくちゃ」と出勤中の頭の中は謝罪文でいっぱいになっていた。
けれど私の緊張は杞憂だったようで、温かく職場に迎えられた。そんな職場の雰囲気にやっぱり良い職場だなとしみじみ感じた。復帰初日は緊張しながらもいつも通り働くことが出来た。そのことがとてもうれしかった。
職場でのチーフとの面談でも復帰し働くことを継続をします。
と、頭を下げお願いし、無事復帰を果たした。

しかし、復帰翌日見知った体の重さと眠気に襲われる。

うつ病を明確に発症したあの日と同じ体の不調である。
せっかく復帰したのに、と頭の中ではそのことばかり考えていた。
この時点で、私のうつ病はよくなっておらず、職場に復帰したことで症状が悪化してしまった。
そして職場に通えなくなり、二度目の休職をした。

何がいけなかったのか、頭をフル回転させたが、わからなかった。
毎日予定も作って復帰できるようにしていたのに、体力も落ちないように散歩をしたりしていたのに、せっかく作ったスケジュールが何も役に立っていなかったことがショックだった。

生活が振り出しに戻ったことで、ひどく落ち込み、夜中になると明日も働けないし、明後日も来週も働けないことがショックで泣きまくった。

二度目の休職は一度目の休職よりも症状がいささか悪く、生活習慣も乱れに乱れた。そんな状態で職場で復帰できるはずもなく、通算6か月の休職期間を経て、私はあえなく退職となった。
退職となったものの職場には感謝をしている。
仕事の手間を増やしてしまったが、職場復帰調整をしてくださったり、こまめに連絡をいただいたりと、当時のチーフや職場の皆さんには感謝をしている。
この場を借りて、当時は大変ありがとうございました。

1度目の転職

晴れて無職になった私は、これからどうしようかと頭をまた悩ませる。
当分は無職のニートで良いかと思っていたが、働きたい私は常に転職サイトをあさっていた。
けれど、どの職場も自分に合っていないような気がしてしまい、転職活動はうまくいかなった。

そんな時、母が友人の職場で人を募集しているという話を私に持ち出してきた。
タイミングが良いこともあり、今がチャンスと思い母の友人に連絡をした。
「うつ病ですが、大丈夫ですか?」
と聞くとサポートするとのことで快く承諾をしてもらい、とんとんと転職先が決まった。
あまりのスピーディさにこれで良いのかと思う暇もなかった。
初めての転職は知り合いがいるとあり、とても安心感があった。
職場の雰囲気もこれまたよく、私の上司にあたる方も、私がうつ病であることを理解してくださっていた。
何とか一週間通うことができ、このまま続けていけそうだと思った矢先、またしてもうつ病が悪化をした。

覚えのある体の重さと眠気、またかと頭を抱えた。
いいかげん何度も襲ってくる症状にイライラ感がすさまじかった。
せっかく転職をしたのに、職場に行けたりいけなかったりとするため、せっかく転職した職場を一か月でやめることになった。
もうこうなっては平謝りである。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」と謝り疲れるほど何度も謝り倒した。けれど、謝ったところで自分がかけた迷惑が返上することもなく、重くのしかかる罪悪感に消えていなくなりたくなった。

詐欺にあう

そしてまた無職になった私は、次の問題に差し掛かっていた。
それはお金の問題である。

働いていないので、貯金が無いのである。
もちろん働いていたころの貯金と、申請した傷病手当でやりくりをしたが、毎月奨学金返済等で消えていく貯金に不安感がぬぐえなった。

そんなお金の心配をする頃に詐欺にあうことになる。

それはよくある、「お金壌土します」という見るからに怪しい広告である。
今でも後悔するほど、なんでそんなものに大事なお金を使ったのか今でもいささか謎である。けれど、当時の私は何かにすがらないと生活が出来なくなる。という不安に憑りつかれていた。

「お金を壌土します」という内容から、人とやり取りをするのだが、「あと何分以内に振り込まないと壌土できません」「あなたのためなんです」という分かりやすい詐欺にまんまと引っ掛かり、物の数分で30万円を溶かしてしまった。
お金が必要なのに、逆にお金を渡してしまったのである。
もちろんお金は壌土されないし、支払った30万円は戻ってこない。
私は詐欺には引っ掛からないと思っていたが、思考回路が落ちているときの判断というのは大変怖いものであると認識する出来事となった。
一生懸命働いて稼いだ貯金が一瞬で消え去ったことは喪失感とも似ていた。

もう詐欺には引っ掛からないと思う今も貯金が底をついているので、引き続き気を付けていきたい。

2度目の転職

うつ病発症、退職、転職、詐欺といろんなことがあった2022年を無事におえ、2023年新しい年を向かえた。
今年こそは頑張るぞと意気込む私はとてもやる気に満ちていたし、大殺界ともいえる一年を過ぎたので、今年はよい年になること間違いがなかった。

そんなやる気に満ちている私はうつ病になってから丸一年がたつ頃、二度目の転職に踏み切っていた。
一度目の転職をきっかけに焦らないことを目標にしていたので、今回の転職はのんびりいこうと決めていた。
そう思っていたころ、うつ病になり仕事を辞めた私を見かねた、以前通っていた専門学校の先生から転職先のお誘いを受けた。
信頼をしていた先生のもとで働けるとあったので、とてもワクワクしていた。そのため、家族、友人に「○○先生のところで働くことになった」と、報告をしまくった。
週三日の7時間勤務と、病気もちとあり、パートとして雇ってもらえることになった。二度目の転職先の職場もとても落ち着いた雰囲気ですぐに気に入ったし、新卒で入職した職場と雰囲気が似ていたので、恩返しをする気持ちで働くことが出来た。

しかし、一週間すると疲れが出てきたのか、一日休んでしまった。
そのため調整をしてもらい、週二日の7時間と勤務形態を変更してもらった。
至れり尽くせりで申し訳なったが、働いて返すと思っていたので、何とか週二日で働くことができた。

ある出勤日を挟んだ日から、気持ちのつっかえがあった。
それは職場で言われた一言が自分にすごく刺さっていたからだった。いただいた言葉がとても今の自分に当てはまっていて、苦しくなった。

そしてその日から職場に行けなくなった。

また同じことを言われたらどうしよう。本当は嫌われているのかもしれない。私が入ってきたことがうれしくないのかもしれない。
と、ありもしない被害妄想に毎日のように苦しんだ。

この時点でまだ復帰には早かったと当時を思い返す。
うつ病になって一年だからもう大丈夫、私は平気、という相も変らぬ過信がまたしても失敗をする原因になっていた。

そして私は二度目の転職先も一か月で退職することになった。


無職でニートになる

そうして現在まで、無職でニートをしている。

過去を振り返るに、新卒の職場での働き方、転職先でも、自分自身に対する大きな過信が自分を苦しめる材料になっていたと思う。
自分への過信は時にはやる気となってよい方向へと行くが、私の場合、自分への過信が行き過ぎてしまっていた。
自分の考え方をすぐに変えることはできないが、自己分析をすることで自分の知らなかった一面を知ることになるのはよいと考える。
それを知るためには、どの出来事も自分にとってとてもかけがえのない大切な出来事であったことは間違いなかった。


さいごに

この私のどうしようもない一年間を読んでくださった方の中にも何かに悩んでいたり、何かわからないけれど苦しいそんな日々を送っている方がいるかもしれない。誰にも言えない悩み、休息をとりたくても取れないそんな日々があるかもしれないが、私のようにならないようにできうる限り、自分を甘やかして生きてほしい。

自分は自分しかいない尊い存在であるから、どうか自分だけでも自分を大切にしてほしい。
私からのお願いは以上です。

最後に、私のどうしようもない人生に携わってしまった皆さんに感謝を述べたい。私は出会った人にとても恵まれているし、とてもタイミングのいい女だと思っている。たくさんの人のやさしさに触れて今までを命を終えることなく過ごせたこと、とても感謝しています。
ありがとうございます。

大変長くなってしまいましたが、ここで終わります。
最後までお読みくださりありがとうございました。

#創作大賞2023 #エッセイ部門



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