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自分という存在と共依存という関係はあり得るのか#60

何かを期待して見にきてくださった方すみません。ただの日記です。でも、ありがとうございます。これを覗きにきたということは、もしかしたら自分との関係性に悩んでいるのかもしれませんね。あるいは、身近な大切な人のことを思い浮かべてきたのかもしれません。私に何ができるわけでもありませんが、あなたにとって、一瞬でもほっと一息つける心休まる時間があることを切に願っています。

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「自分との関係性がよりよくなるためには?」を本格的に考え始めようとしている。今までは「それは心理学を専門的に学んだ人の仕事だ」という勝手に設けた自分の思考の枷に囚われていた。でも、別に大きな過ちさえ犯さなければ(例えば、知識を誤って活用してしまうなど)、個人で探究する分には何も問題がないはずだ。そもそも何をやるにしても自由であるはずなのだ。それに、一応コーチング文脈から、対人支援をする上での倫理観には気を遣っている。

自分という存在と共依存という関係はあり得るのか

結論からいうと、あり得る。むしろ、結構身近なことなのではないかと思う。

まずは、共依存の定義から確認したい。斎藤学さんの著書『「愛」という名のやさしい暴力』から引用させていただく。特にいろいろな文献をあたったわけではなくたまたま家にあった本なだけだ。

他者の願望・期待を読み取り、それに合致するよう生きようと常に努力すること(p.2)

同時に、共依存そのものが悪いものではなく、斎藤氏は「人間とは本来、そういう生き物」とし、「その人が関わることによって身近な他者(たとえば配偶者や子ども)に有害な作用をもたらすときに『症』の文字がつく」と述べている。

この定義をもとに、他者を自分に置き換えてみると、自分と共依存(症)な関係であるとは、次のように言い換えられるだろう。

自分の願望・期待を読み取り、それに合致するよう生きようと常に努力しようとするが、身近な自分に有害な作用をもたらす

前半だけであれば、共依存ではなくカウンセリングのロジャーズがいうところの”自己一致”ということになるのであろう。それに、言葉だけ見れば悪い印象すら持たない。しかし、最後の一文が見事に前半のよさを反転させる。

もっと簡単にいえば、自分のために頑張っているのにかえって自分を傷つけている。こうして言葉にしてみると、結構身近なことなのではないかなと感じる。もちろん、頑張っている基準は主観でしかない。他者から見れば明らかにおかしい頑張り方をしていることもあろう。わかりやすい例が、他人の役に立ちたいと思い自己犠牲をすることだ。

しかし、問題はここにあると思う。つまり、自分ではなかなか自分に有害な作用をもたらしていることに気づくことができないのだ。さらには、例え気づいたとしても、自分の願望・期待と繋がった行動をしていると認識しているために、自分の行動をなかなか変えることができない。

ここまで考えてみると、やはり自分という存在と共依存という関係はあり得ると思う。

では、その関係性をどうやって変えていくか。それは3月までに形にしていきたい。コーチングを学び始めてもうすぐ2年が経とうとしている。コーチ・エィアカデミアでの学びも終了し、ACTP認定終了試験にも無事合格した。コーチングでの次なる目標はACCだ。コーチングを学び始めた頃に立てた一つの到達目標。ゆっくりとではあるが、確実に前進している。ひとたび外に目を向ければ、ビジネス上手人間や生きること上手人間、自分ととのい上手人間が溢れている。そんな中でついつい焦りが生まれがちだが、結局大事なのは「自分のペースを守ること」「自分の大事なことを守ること」に違いない。他者の声は一旦無視するくらいでちょうどいい。まずは自分だ。

とはいえ、他者からのフィードバックはありがたいほどにギフトなので、それを受け取れる余白を作ることが本質的に大事なことなのかもしれない。いつだって自分を変容させてくれるきっかけを与えてくれるのは他人だ。

そのチャンスを逃さないように、自分をととのえよう。

2021.12.4.21:14

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