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希望と絶望のどちらに繋がり続けるか?#62

嬉しいことも悲しいこともある。それが人生だ、なんてわかったように言ってみたりもするけど、そのことすらほんの些細な一部でしかない。

思えば、ずっと悲しいふりをしてきた人生だったように思う。そういえば2週間ほど前、そんな自分に嫌気が差し、確かにあった幸運な人生の部分に光を当てようと思ったのであった。

悲劇の主人公。それは、自分が悲しくなれるような現象を探し続けてきた人生と言えるかもしれない。たくさんの嬉しいこともあったはずなのに目を背けてきた。

なぜだろうか。

きっと嬉しいことの存在が、悲しいことや苦しいことの影響を大きくするとわかっていたからだ。こんなに悲しくなるのなら、最初から悲しいままでいればいい。そう思っていたに違いない。あとは、悲しいを怠けるための理由としていたのかもしれない。本質的なこととしては、自分に嘘をつき続けてきたことだろう。

自分は嬉しいことがあっても喜びすぎない。もちろん、感情を抑えてきたわけではない。むしろ、自分は感情をわかりやすく表現する方だ。だが、根っこの部分では人の目を気にして表現を抑えていたようにも思う。

先ほど、こっそり追いかけている方のnoteにリアクションをした。そしたら、すぐにその方からお礼のメッセージをいただいた。僕は好きでリアクションしただけなのに、と思いながらも、これがまさに「ありがとうの循環」なのだと感じた。

その方はとても美しい言葉遣いをされるかたで(というより基本僕がリアクションする方は言葉遣いが美しい方ばかりだ)、いつもnoteを読むのを楽しみにしている。読ませていただいてありがたいといつも思っていたのだ。

自分は好きで読んでいるだけなのに、感謝をされる。

なんて希望に満ち溢れた世界なのだろうと思う。先ほど「ありがとうの循環」と表現したが「好きの循環」であるかもしれない。いや「好き」が循環するのではなく「好きから始まる循環」と言ったところか。何だか今とても暖かい気持ちになっている。

こうして、悲劇の主人公ぶることに飽きた自分は、絶望につながる時間ではなく、希望につながる時間を増やしていきたいと思うのであった。

2021.12.5.19:07

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