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ネズミ講編 その1の4(静かに完結)

獲物に向かい滑空する直前の鷹の目で俺を見つめながら、女は言った。

「実印ってわかるかなあ〜!成人したらねぇ、自分だけの印鑑を持たなきゃいけないんだけど」
「はあ、そうなんですか」

「実印っていうのはぁ、ぜったい丈夫じゃなきゃいけないのね!欠けたりしたら無効になっちゃうから」
「なるほど、そりゃあそうですね」

実印を持たなきゃいけないって?ワぁが?
実印ってなんだっきゃして。
普通のハンコだばわがねのが。
いままで使ってきたのって木の印鑑だべ、何にも不自由ねがったけど。

「それでぇ〜、今回新成人のみんなには良いモノを使ってほしくてご案内してるんだぁ。ウチで扱ってるのは、柘植と水牛と象牙でぇ」

銀行印と実印のとってもお得な2本セット、これから社会人として戦っていく戦士達には最初の道具屋で買い揃えるような武器なのだろう。きっと。

「柘植っていうのは凄く丈夫な木で30万円ね、水牛っていうのは印鑑の素材として良く使われているけど選りすぐりのいいやつ、これが50万円で」

流暢に商品説明をしているが、
こ れ は 一 体 な ん な ん だ?
値段がおかしいのか、印鑑を欲していることになりそうな俺がおかしいのか、東京は魔界だって噂がほんとだったのか。
人並み程度にあがり症だった俺は、恥ずかしい訳ではないのに耳が真っ赤になっていくことに狼狽え、下半身から血が引いていくのを確かに感じた。

「それでぇ〜、今回一番オススメなのがね!この象牙のやつなんだけどぉ」
当時、象牙はどうだったか?
すでに輸入等は条約で禁止されていたのかもしれない。
「70万円なの!高く感じるでしょ!でもこれは一生使えるしね、長い目でみると安いんだぁ」
臆面もなくあまりにもスルスルと心地よく諭してくれるので、すっかり信じてしまいそうになる。いやもう半分は取り込まれていたに違いない。
「そういうものなんですねー、70万円か。まあ高いですよね。俺は一括ではとても払えないなあ…」
「もちろん月賦で払えるよぉ💓」
怯まない。
怯まないぞと腹筋を強張らせ冷や汗を押し込める。酒とバラの予感は130光年先のブラックホールの入り口あたりでじっと止まっている。

「うーん、そうか、でもなあ、給料安いし」
俺はモジモジモゴモゴと独りごちているように悩みながら、現状打破の方法を検索しようと軽い走馬灯を回す。

久保女史はここぞと切り札で時空を切り裂く。
「実はねえ〜、シリウス君のクラスメイト何人か、もう買ってくれてるんだ💓」


は?
マジかい!ちょ待てよ!



「ほら、これ契約書ぉ〜」とパラパラと見せてくる女狐ちゃん。
もう既に俺からは巨大に見えている久保女史、あんなに華奢で可愛いOL風だったのに君は何てことを言い出すんだいハニー。

その契約書には確かに同級生達の名前が、みみずののたくったような筆跡で記してあり、その住所は記憶にある各々の就職先とも合致していた。
間違いなく本物だ、これは。
あいつらは契約してしまっている。

「ちょっとねぇ〜高いんだけど、お友達紹介してくれたらお小遣いもバックしてあげられるしね💓」

完っっっっっっっ全にアウトだが、もう既に洗脳されかかっている俺。
しかも久保女史のパンツは見えっぱなしのため、時を追うごとに正常な判断力は自身で気づかないうちにピンク色で塗りつぶされ機能を失ってゆく。

(どうする、どうする、買うのか、いや間違いなく高すぎるけど実印はこの先必要らしい。どうする。一旦親に確認するのか。)

五反田のラブホ情報もしっかりと用意してきた俺はもう引き下がれない。なんとしてもこの後につなげたいが、今ここで決定するには危険すぎる。

勇気を振り絞って女狐に問う、
「これって今日決めないとだめですか?」

「うん、そうだよぉ💓今日だけ、今だけの特別な案内だからねぇ」
間髪入れずに強烈なレバーブローが飛んでくる。

まじが。
手取り13万だぞ、ワは。
今の寮は4畳の風呂無しだし、給料前の金欠時は知らないメーカーのカップラーメン糊口を凌いているというのに。
70万の象牙のハンコを買うってが?
いやいやいや、んなごどねえべ。
実家だって金ないぞ。

「ちょっとお手洗いいってくるねぇ!」
久保女史が席を立った隙に、車に詳しい先輩に聞いてみようと思い立ち光の速度でS先輩に電話を入れる。
「もしもしシリウスです」
「おうなんだどやした」
「実印って車買う時に必要ですか」
「んだ、必要だけど」
「やいや、いま70万の象牙の実印すすめられてるんですけど」
「バガすぐ断れ今すぐ帰れ!いらねぇど、そったら高いの!もっと安いのあるすけ!!」
「わかりました、どうもです」

久保女史がトイレから戻り、色々な想いを大脳辺縁系の底に押し込みビビりつつも告げる。
「俺、やっぱり要りません!帰ります!」

「え!なんでよ!ちょっと待ってよ!」
猫撫で声は消え去り、表情にドスが効いてくる。
「車買えないよ、どうすんの!」
「社会人でしょ!」
「友達全部しってんだよこっちは!」

怖い。

次々と罵声を浴びせてくる久保を後目にすいませんすいませんスミマセーン!と1000円札をテーブルに置き涙目で喫茶店を後にする。
3枚のお札の昔話ってどういう展開だっけ。
久保は立ち上がってこちらを見ている。

怖い怖い怖い、やっぱり東京は怖いとこだった。
とりあえず寮に帰るにしても住所がバレている可能性もあるしこられたらマズいぞと思い少し離れた公園にしばらく身を潜めながら2時間ほど過ごしたが追手は来ないようだった。
100円で買える冷たみ、冷えた缶コフィー握りしめ。

この時は何とか事なきを得たが、彼女の圧に負け購入してしまった同級生達はどうなってしまったのだろうか。
真実を知るのが怖くて今のいままで確認をしていないが、今度会うことがあれば聞いてみようと思う。

以上な顛末により、
19歳の晩夏、
俺に春は、
訪れなかった。


(大した結末じゃなくてメンゴ)

参考:
・福井印鑑ネズミ購事件
http://www.win-cls.sakura.ne.jp/pdf/11/05.pdf (16ページ目)

・国会図書館蔵書
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000210793


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