良書「サピエンス全史」から企業を考える
1. 昔見たドラマ「トリック」の中で、仲間由紀恵演じる自称天才マジシャンがとある教祖様のウソを見破った際、騙されていた村民が自分達は何を信じていけばいいのかと途方にくれるシーンがある。印象的で事あるごとに思い出すシーンだ。
僕たちは大なり小なり希望と言う名のウソを信じることでいきていける。
2.(1) 少し前に歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの著作「サピエンス全史」を読んだ。
文字通り人類誕生から現在、そしてこの先来るであろうAI時代の人類史。脳が身体性を凌駕していき、他の動物とかけ離れていく様を描いた良書。
その中で印象的だった内容としては、人間と類人猿とを分つもの。
それはフィクション、ウソを作り出し、それを信じる能力。これは他の動物にないものらしい。
(2) 例えば貝殻、金、銀、宝石、紙といっ物体を価値のあるものと集団のみなが信じることで貨幣経済を作り出し、物の交換スピードを加速度的に上げ、その集団が作る社会を豊かにしていった。
また、神という概念もいわばフィクション。これを信じることで人は大きな集団を作ることができ、それを組織化することで例えばマンモスといった巨大な動物を猟って、食料にすることが出来た。
3.(1) このことは企業にも言える。
企業理念というフィクションの名の下に企業が作られ、職安やネットや紙広告で集まった人が組織化される。
それによって、サービスなり商品が作られ、お客様にそれを提供し、利益という名の価値が生み出される。
ウソが価値を作り、世の中に提供される。
それが増大すればするほど社会が豊かになっていく。
いわば社会の豊かさはウソを前提にしている側面があるといえる。
でもそのウソが詐欺になる時、そのウソによって価値が多くの人から詐欺師と言われる特定の人や組織に流れる。そうなると多くの人が涙を流し、社会が害される。
結果、その人なり会社は社会から嫌われ、逮捕されるなり解散を余儀なくされる。
(2) 結局ウソそのものが問題なのではなく、結局それが誰に向けられるものなのかだと思う。
例えば、「本物の警備を提供することで日本における警備業のありかたを変える」というのが自社の企業理念。
この理念はお客様に日常生活の安全を提供することで、安心してそれぞれの仕事なり生活に専念出来るという価値を提供する点で、顧客なりその先にある社会に向けられている。
だからこの理念は健全なフィクションと言えるわけだ。
でもそれを意識するあまり、従業員なり隊員に無理をさせすぎると彼らの生活が損なわれ、結果、労働基準法等で社会から制裁をうけるか、そうならなくとも世間からブラック企業扱いされ、採用広告をうっても人の応募が来なくなる。
なので、この理念も用い方によっては悪いウソ、一種の詐欺にもなる。
そう考えると、経営者の役割というのは、いかににみんなが幸せになるようなフィクションを作り出し、それを実現していくか、ということになる。
3. そのためには人間と言うものをもっと知る必要がある。
清濁併せ持つ人間という生き物を。
自分勝手な不正やウソは論外だという正義感をもつことは素晴らしい。
でもそれが過ぎると自由・平等・博愛という素晴らしい理念という名のフィクションを掲げたフランス革命で多くの人民を断頭台に送り続けたロベス・ピエールのようになってしまう。
結局かれはその言動により自らも断頭台に送られるハメになってしまった…。
少しの不正も許さんという思いから彼が人民のために必死に行った行為は結局身勝手な独善であり、場合によっては上記の詐欺に等しい悪行と多くの人に見なされたわけだ。
やっぱ、おいしいおしるこを作るには砂糖はもちろんだが、多少の塩もまた必要なんだろうなあ。
そういった感覚が自分にはまだ少し足りないように思う。
バルザックの名作「ゴリオ爺さん」のラスティニャックのように、ゴリオ爺さんを死に追いやった上流社会の身勝手さに憤りながらも、「さあ今度はお前と僕の番だ!」という姿勢が必要なのではないかと思う。
まだまだこれからといったとこですね。
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