自分の正義を疑う大切さ

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昨夜から今朝にかけて松下政経塾出身で学習塾を経営されている物江潤氏著「ネトウヨとパヨク」を読んだ。

すぐに反日勢力の陰謀だとか特定アジアの仕業に結びつけ、それをイメージする人やものを排除したがるネトウヨ。

安倍政権のやることをなんでも悪と決めつけ、例えば憲法9条に象徴される現行憲法関して異論を挟もうとする人や考えを極右認定し、やはり排除したがるパヨク。

保守・リベラルとネトウヨ・パヨクの違いは何か。

これについて議論や対話をする姿勢があるかどうかだと物江氏は言う。

相手の話を無視するか軽視して結論ありきで一方的に話したり、反論を相手の結論そのものに対して行い、そこにいたる理由づけや前提事実に対してしない。
そういう人は例え教養や学歴が高かったり論理的思考ができる人でもその場面においてはとネトウヨやパヨクになってしまう。
それがいくとこまでいくと対話不能状態になり、結果事件にも発展しうるといった話を物江氏はあさま山荘事件や2.26事件を例に出しながら展開する。

う〜ん、少し耳がいたい笑。

たしかにそういう意味では誰だってネトウヨやパヨクになる危険性を秘めている。

特に明確な宗教や道徳によるドグマではなく、「空気」によって支配されている日本ではなおさらそうだと思う。

自分にとって大切な正義や当然のことが絡んでいる場合、それに対し、異論を挟まれたりすると考えだけじゃなく人格が否定されたように感じてしまう。
それに対する憤りを抑え、まず相手がなぜそんなことを言うのか耳を傾ける。
その上で、納得できなければ、そのことを再反論という形で表したり、相手に更なる説明を求める。
納得すれば、場合によっては結論を変える。

そのためには自分にとって大切だと思う正義を疑い続けるスタンスが必要だと思う。

もちろん、異論を挟む側も自分が正しい側にいて相手が間違っていると決めつけて上から目線や暴言といった言い方だといくら言っていることが正しくても、一方的なもの言いになり、やはりネトウヨやパヨクになってしまう。

印象的だったのは遠藤周作著「深い河」の中の神を信じるという人生は理解できないけれども、人々がガンジス川に浸りながら、神に祈りを捧げる光景は信じることができるというメッセージを対話や議論にも当てはめることができるという件。

考えは違っても、その考えに対するひたむきさや真摯さは共感できる。
その気持ちが相手に対する敬意、引いては健全な対話や議論につながる。

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これは仕事の現場でもいえると思う。

例えば現場責任者が隊員と面談によって指導する場面。
現場管理者としては隊員の考えとは違う部分に問題があると思っていても、とりあえずは隊員が仕事のどの部分に対して問題を抱えて、どういうつもりで仕事をしているのか話を聞く。
その上で自分の考えを述べて、隊員の仕事そのものというよりはそこにいたる判断や認識した事実に対し、異論を述べ、さらに考えさせる。
そうすればお互いにとって納得のいく形になるのではないか。
これは指導に限らず教育、コーチングや目標管理に関しても使えるアプローチだと思う。

大切なのは自分と相手双方を尊重するという基本。
そんな思いで日々を過ごしたいとこの本を読みながら感じた昨日だった。

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