見出し画像

絶望の阿部寛

人生で絶望を味わったことはありますか。

私はあります。一度だけ。
それも、たった4文字で。



今まで生きてきた中で「キツイなー」と思ったことは何度かあります。

初めて付き合った高校1年生の時。
別れた後も「やり直してほしい」と言ってくれた彼が次に付き合ったのは  明るくて性格もいい、人気者で ものすごく美人なドイツ人の女の子。
キツイ。
なんで私とはすべてが真逆の女の子と。
どこがどうなってそうなったのか、納得いくまで説明してほしい。


尖りきっていた大学1年生の時。
クラスの子と意見が衝突し、言い合いになった後
「もう行こう!」と親友に声をかけて教室を飛び出して
ふと振り返ったら誰もいなかったこと。
キツイ。
卒業後にもらった年賀状に返事を書かなかったくらい
ひきずりました。


でも、そんな経験では絶望することが無かった私が
唯一絶望したのは 小学校1年生の時でした。

当時、泳げなかった私は親の勧めでプールに通っていました。
よくあるスクールのシステムで、級ごとにクリアすべきテーマがあり、そのテーマをクリア出来たら次の級に進級できるようなプール。
私は当然、顔を水につけてみようという1級からスタートしました。

1級から3級までの超初心者には一番端のレーンを区切って狭いスペースが与えられており、4級の25メートル以上泳ぐことができる人との間には  水面に浮かぶ形でプラスチックの仕切り線がありました。

水に顔をつけることもできない私にはその線がとてもまばゆいもので  プラスチックでできた細い線が凄く大きな隔たりだと感じていたのを覚えています。

そのうえ、その線の向こう側には女神がいました。

優しい4級の先生。
その女神は、4級のテーマである背泳ぎの最中になんと
生徒の顔にかかった水を手で拭いてくれていたのです。
優しいほほえみを浮かべながら。

うらやましい。
私も顔を拭かれたい。
優しくされたい。
泳ぎ切って頑張ったねと優しい言葉をかけられたい。

その邪な一心で私は苦手なプールを頑張ることを
小さな心に固く決めました。
おそらく私が人生で初めて、自ら掲げた目標。

はやくこの狭い世界から抜け出したい。



1級から3級までの超初心者にはベテランの先生が付いていました。
俳優の阿部寛さんをそのまま縮小したような彫りの深い、目力のすごい先生が。

いまでこそ、その先生がベテランのいい先生だと理解できるのですが
当時の私には怖くて仕方がなかった。

160cmの細マッチョ阿部寛。

ほとんど無口で周りをギョロギョロ見渡す阿部寛。

プールキャップを目深にかぶり、より目力が強調されている阿部寛。

何かあるとものすごく美しいフォームの爆速クロールで急激に目の前に現れる阿部寛。

そんな阿部寛の名前は「マコ先生」。
イントネーションも同じ、文字数も同じ2文字。


狭いプールの片隅で水に顔をつけて
閉塞感と恐怖も相まって息苦しく記憶も飛びながら
目標に向かって頑張った日々を過ごしていました。

今がつらくても、未来には輝かしい女神が待ってる。

早くあの線を超えるんだ。

私はやれる!

頑張って女神に顔を拭いてもらう!


小さなその胸の向上心の灯のおかげで私は
水に顔をつけることができるようになり、
水に浮くことができるようになり、
バタ足で進むことができるようになりました。

そして、息継ぎはできないけれどクロールもできるようになった。


そして迎えた3級の卒業試験。

3級のクリア条件はクロールで25メートル泳ぎきること。

これをクリアすれば4級に上がれる。



クリアすれば女神が待ってる。

あの線を超えられる。

もうこの狭いエリアから脱出できるんだ!



人生で味わったことのないほどの緊張が体中を支配する感覚。



ただ、この挑戦は私にとって一か八かの大勝負だったのです。

なぜならそう、息継ぎができなかったから。


初心者は息継ぎを練習して泳ぐことになっていたのですが、
私は息が長いふりをして、あえて息継ぎしないで25メートル泳ぐんですよというスタンスを取っていたのです。


もたもたしていつまでも3級にいたくない。
クリアするべき課題は25メートルであって息継ぎではない。
そんな法の抜け穴を通って私は卒業試験の場所に立っていました。


できるだけ速く。
苦しくなって途中で立ったらそこでお終いだ。

できるだけ早く。
ここから抜け出さなければ。


卒業試験では誰よりも速く泳いでいたと思う。
おそらく傍から見たら溺れているようだったのかもしれない。
けれど、目の端に見える周りの生徒がぐんぐん後ろに遠ざかっていくのが見えた。
ものすごい優越感。

ただ、そんな優越感もあっという間に上書きされた。

苦しい。

息が続かない。

感覚的にはもう15メートルは来ているはず。

あと10メートル。だがもう息苦しくてつらい。

頑張ろう!あきらめないで、頑張ろう!
自分で自分を励ましながら進んでいく。

あと5メートル。もう立ってしまおうかと頭を弱音が横切る。

いや、やれる!あとちょっとじゃないか。

もうちょっとで女神に会えるんじゃないか。

マコ先生とはお別れできるんじゃないか。

進め!

進め!

前だけを見るんだ!

夢に向かって頑張るんだ!

進め!!!!


そうやって私は泳ぎ切った。
25メートル。

やりきったのだ。

遠く、自分がスタートした位置にマコ先生が見える。

こっちを見てる。

勝った。やりきった。

さようなら。マコ先生。

さようなら。阿部寛。



その試験が終わってみんながプールサイドに集められた。

「みんな頑張ったね。進級するメンバーを呼びます。」

4級の女神が3級から4級に進級できる人の名前を一人一人優しい笑顔で読み上げた。

そして、その中に私の名前もあった。

涙が出るくらい嬉しかった。



そして女神は続けてこう言った。

「4級の先生と場所が変わります。
 場所はね、今までと同じ場所になります。
 ちょっと狭いけれどね、みんなで譲り合って頑張ろうね。」

「そしてね、担当してくださる先生はね・・・」

こう言って横を振り向いた。


続けて横にいた阿部寛が低い声でこう言ったのだ。



「マコです」




私はプールを辞めた。


泳げないけど、もういい。

泳ぎたくもない。


私を絶望させた4文字。


今でも耳の奥に響いている。





あなたの絶望は、なんですか。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?