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シンボル/裸足(2021/11/27)

・こんにちは、sirasuです。


・眠みエムです。(眠いエミネムのこと)


・土曜日なんだけど本来受験生の僕はパリっと切り替えて勉強をすべきなのだが、長く寝たり、勉強せずに絵を書いたりするので全く模範的でないことがうかがえる。

・人間よ、反骨的であれ。


・あと、昨日の日記を振り返って読んでみると、最後に書いたのが9月で〜みたいなことを言っていたのは真っ赤な嘘だ。普通に10月くらいに投稿してたわ。盛ってたわ。ごめんなさい。

・と考えると時間の流れって遅いのか?というか10月って何があったんだっけ?やべえ、漫然と時を過ごしている。希釈したカルピスのような日々を過ごしているのでは、全く人間らしくない。僕たちにはでけ〜脳みそがあるのだからせっかくなら使わねば。



・今日は哲学的なお話。

・この間、駅をいつも通りノホホンと歩いていると歩道のど真ん中に赤い花がぽつんと落ちていることに気づいた。誰かの落とし物だろうか、誰も拾おうとはせず、一瞬チラリと見てそのまま歩き去っていく。

・誰か拾えよ!と思い現代社会の有象無象の中にある心の孤立を感じたが、実際僕も拾わなかったわけで、何も言えない。というより今日はそう言う話ではないのでパスの方向で。

・そこで僕がふんわりと思ったのは、味気ない白黒の歩道の上に花が置いてあると、誰かがここで死んでしまったのでは、ということだ。よく交通事故があるとガードレールとかにお供えものや花が置いてあるけれど、そう言う感じ。

・いや、実際は本当に誰かが恋人とか親とかにプレゼントするために買ったものを落としてしまったというおっちょこちょいエピソードなのかもしれない。しかし、その過程を僕たちは見ていないわけで。だから結果とそこにある状況だけを見て僕たちは物事を判断しなくてはいけないのだ。

・これがすごく不思議で違和感のあるようなことだと感じてしまう。


・僕が知っている現代アートの作家にフェリックス=ゴンザレスという人がいる。

・彼はまず時計を二つ並べただけの状況を用意しておく。そしてこの時計は内臓電池の関係でどっちかが次第にずれていく。この状況を用意した彼は「perfect lovers」という作品名をつけた。そしてそれを作品にしてしまったのである。ムチャクチャな気もするが、この作品は現代アートの一つとして名前が上がるほどには有名な作品である。

・この作品のネタバラシをするとこの二つの時計は彼とその恋人を表していて、彼より先に死んだ恋人を表現するためにこう言ったコンセプチュアル・アートを作ったと言われている。

・作品の是非は置いておいて、僕はこの作品はすごくおもしろいと思った。だって、時計を2つおいただけでそれを「作品」だと認識し、その意味を深く探ろうとするなんてものすごく滑稽じゃないだろうか。この場合は「perfect lovers」なんて仰々しい名前と、時計がずれていくというギミックが用意してあるから、これは作品だとして深読みをすることができるけどそうじゃないならどうなるのか。

・時計がただ2つおいてあるのに「この2つの時計は置いた人間の恋愛関係を表しているんだ!!」なんて叫んでいるやつがいたらオススメの精神病院を勧めたくもなるだろう。もちろん「時計の時間は人生の時間を表していて、秒針はすれ違い追いつこうとする二人の関係を云々...」と捉えることができたとしても、そこにある結果とそれを読み取る僕らの意識は全く別のものとして乖離している。


・そう考えると、駅に置かれた一束の花も非常に面白い見方ができるかもしれない。誰かの忘れ物か、それとも誰かのイタズラか、或いは誰かを弔うために...。と、さまざまな情報や可能性を我々は感じることが出来ても、結局は「道の真ん中に花が置いてあるだけ」という状況だけが真実である。

・もしくはこう考えることもできるかもしれない。ガードレールのそばに花やお菓子が置いてあったとしても、そこで事故があったかどうかがわからない限りは、「ただそこに花やお菓子がおいてある」だけで、それ以外のことは全くわからないのである。

・どこかの人類学者は我々人間を「アニマル・シンボリクム」だとして「シンボル(印象)を操る存在」だと定義したらしい。たしかに的を得ている考え方だな。と不思議と納得してしまった。

・そして裏を返せば、我々は「シンボル」で容易に操られてしまう存在でもあるのではないだろうか。そこに凜然とそびえている事実を見ずに、そこから得られた印象や自分の思い込みでものごとを判断する。そういうことにならないために、さまざまな角度から物事を捉えて、画一的で絶対的な物差しを見つける必要がありそうだ。


・むずかしいことを考えていたら頭が痛くなってきた。



・今日も寒い1日だった。しかし、部屋にいるからいいやとタカを括ってサンダルで出かけたら痛い目を見ることになった。さ、寒い...!というより痛い!!

・雪の日に素手で雪玉を作ると霜焼けが起こるが全くそれと同じ痛みだ。冬を舐めていたわけではないのだが、僕は靴下を履くことが苦手なので、サンダルで出かけたいのが本望だ。しかし、時には靴下を優先すべき時もあるのだろう。

・そんなサンダル小僧の僕の夕飯はラーメン。足と体が凍える寒さの分、あったけえラーメンが沁みる...。こんなにラーメンって美味いんだ。

・これからは極力靴下は履かないといけないらしい。しょんぼり。



・では、また。

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