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漁師町の年配ろう者を偲ぶ

私は、今までに十数回の引っ越しをしてきたのだけれども、ほとんどの住処は海まで10分以下のところでした。父系、母系そしていとこも漁師家系であり、私は漁師ではありませんがスキューバダイビングを通じて現在も海を楽しんでいます。

さて、私の実家があった町には年配のろう者がいたのですが、最近亡くなられたと聞きました。今、彼を偲びながら書いています。

彼は、義務教育を受ける機会がないまま漁師になり、ご自分の舟も持っていて、一人で海に出てアジ、サバ、タイ、イシダイ、アオリイカや、ケンサキイカなどの地魚を釣り、時には市場に売り、時には自分の夕食のおかずにするといった生活をずっと続けていました。

一般に「漁師」とは、漁業業協同組合に加入して組合員になり、定められた額を納入したうえで、「水産業協同組合法の第十八条」に書いてあるように1年に最低90日以上漁業を営むか従事する人のことを言います。しかし、彼は前述の通り教育を受けられなかったため、識字能力がなく小型船舶操縦士免許も取得しておらず、手話もほぼできませんでした。

免許がないにも関わらず彼が舟を操縦することを、周りの漁師たちは黙認していました。つまり、正式な漁師ではなく、船舶操縦も御法度です。ですから、他の町の漁師に非難されたり海上保安庁に逮捕されたりすることがないよう、遠くの海に出ることは自制していました。

彼を支えていたのは、紛れもなく地元の漁師たちです。舟のエンジンが故障するなどのトラブルがあれば、漁師たちが店に掛け合ってくれるなどして支援してくれました。

また、彼は漁師たちとは、身振り手振りを交えて、魚の特徴を表したり釣り方や釣果を教えあったりしていたのです。「良い」は「天狗になる」のイメージで鼻の前にグーを置く形で表し、釣果ゼロのことを「坊主」すなわち「頭が禿げている」で表し合っていました。

たとえば、アオリイカはルアーと呼ばれる「疑似餌」が釣果を左右します。このルアーだとよく釣れる、そのルアーだと坊主といった簡単な情報交換をしていたわけです。

彼らはろう者である私に対しても、「良い」や「坊主」などの表出を拾いながら会話してくれました。しかし、彼らがどこでそれらの表出を知ったのかは、謎のままです。

地元の人情で漁を許される事例は心温まるような話ではありますが、教育を受ける権利を含む様々な多くの権利を享受できず、彼が漁が好きだったこと、地元の漁師たちが黙認し支援してくれたのがせめてのもの救いでした。漁に制限があり、遠出してカツオ釣りをすることなんぞできなかったわけですが。教育を受けなかったために、ご自分で職種を選択することは困難でしたし、人付き合いが少なく縁談も生まれず、自動車免許もなく、そのために生活や趣味に幅を持つこともできませんでした。

現在もろう者に対する教育には様々な問題が叫ばれていますが、少なくとも私は簡単な文章の読み書きや、手話で会話することもでき、就職できました。必要な時は手話通訳を依頼することもできるようになりました。

彼と私の境遇差を顧みれば、ろう者を取り巻く状況が戦後以降大きく変わったことを実感させられます。

彼の冥福をお祈りします。

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