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生と死と夢のはなし


リアルだった。

現実と区別がつかない夢はたまに見るけれど、昨日の夢はそういったタイプの夢だった。


私は病気になったらしかった。体は痛くも辛くもなかったけど医師からの余命宣告を受けた。

たぶん、昨日観ていた再放送のドラマや、日中SNSで、考えさせられる情報をいくつかチラ見したことが影響していたのだろうけど、夢の中の私は、自分が死ぬことに悲壮感がなかった。
ただ、理想の一軒家を建てると決めていたことを実現せずに人生を終えるんだなあ、そっかー、とか、夫やペットを看取ってから死んであげたかったけれど、そっかー、無理なんだなあ、と残念に思い、でも『死』から逃れることは誰にもできないから、しょうがないと観念した。

死ぬことが怖くなかった。
そういうもんだよね、と柔らかく、あきらめた。
人生って、人間って絶対に終わるから、それは、そうだよね。いつか来るよね、そういう日が。うんうん。と。

ブログとか諸々更新途中のあるけど、どうしようかな~っ、それはやってる時間ないかもな~、ま、いいか、と心の中。

そうだ、私が死んだ後の“やりとり”にサインを決めておこうよ、と私は夫や親に言った。キュイ、キュイ、キュイ、って音とかさ、なんでもいいんだけど。その音がしたら、私近くにいるから、って合図ね。
私だけがちょっとハイテンションで、家族は「まあ、そうする?(無駄になるかもしれないけど)」というリアクションだった。夢の中の私はちょっと寂しかった。
でも逆の立場だったら、私も微妙な感じになっただろう。だって生きている側からしたら、霊感0%なんだから、死者からのサインを取りこぼす率は100%だと思うだろうし。

そんなやり取りの後で、私はすごいことに気づいた。

それは10代から書き続けていた、ただただ恥ずかしいだけの日記帳、友達との手紙のやり取り、交換日記、ネタ帳、それらをすべて生きている今、処分できる!ということだった。 

年齢とともに、若い頃の感覚をどんどん忘れていく。いつか商業で小説を書けるようになったら、引っ張り出す日がくるかもしれないと私はずっとそれらを捨てられずにいる。
それがどんなに“重いもの”か、夢の中でも突き付けられた。

現実の中で、

もういらないんじゃない?
でももしかしたら……。

自問自答をどれだけ繰り返したかしれない。


でも、夢の中の私が答えを出していた。

自分が死ぬなら、それらもいらない

まだ生きているから、それらを捨てることができない


なるほどなあ。
潜在意識がストレートに出てくる夢の中は、面白いなあ。
じゃあ覚悟を決めて、もう少し、捨てずに持っていよう。せめてあと10年――。
あれっ? タイムリミットがまた10年のびた。思わぬ誤算だ。

30代で夢が叶わなかったら筆を折ると言っていたのに
40代にのびて、さらにその上?
いったいいくつまで夢を追うつもりでいるんだろうと苦笑いしかない。


そしてもうひとつ、

夢の中の私は、死ぬことがつらいでも、怖いでもなく、受け入れていた。
こういう死が、いいな。と願った。
なんせ、希望より老後というワードの方が身近に迫ってきている身だからね。ははは。




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