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最終回の最終回(『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想)

【この記事には内容に関するネタバレがあります。それ以上に自分語りがありますので、そういうのが好きじゃ無い人は帰ってください】

 25年間の呪いが解けた、そんな気がする。それは視聴者側だけでなく制作者側もそうなのではないかなと。

 遂に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、何度も繰り返されてきたエヴァの「最終回」の、ほんとうに最終回だった。

25年前の呪いと福音

 初めてエヴァに出会ったのは学生時代で、高校の頃からの友人が「汎用人型決戦兵器」だの「そのためのネルフです」だの「サービス、サービスゥ!」と言い始めて、マニアが何か夢中になるアニメがあるのだな、くらいにしか思っていなかった。というのも彼は「合言葉はbee!」と叫んでは爆笑しているような感じだったからだ。

 ある日、早めに家に帰ったぼくは居間でテレビをつけた。我が家のテレビ事情は少々複雑で、ダイニングテーブルに9インチのソニーのちっこいやつが載っていて、それが家族共用のものだった。そのほかに、フナイの14インチ型テレビデオが両親の使っている和室にあって、ぼくはゲーム用として高校時代にバイトで買った29インチの巨大なものを自室に持っていた。

 家族三人それぞれにテレビがあったので、観る番組でケンカするようなことはなかったが、三人で観るときは一番小さい画面のやつだった。

 つけたテレビでやっていたのが「新世紀エヴァンゲリオン」。これが友人の話題にしていたやつか、と。途中から見たが、主人公の独白や他の人物から問いを投げかけるような演出のシーンが続き、実験映像や前衛芸術のように思えた。友人が話していた「謎が謎を呼んでる」というロボットものの姿はそこにはなかった。母はよくわからないというような感じで台所に立った。

 それから一年ほどして、再びエヴァはぼくの前にやってきた。

 バイト先の上司に「澤君の好きな子って○○さんでしょ」と唐突に言われ、図星を突かれたので「ハァ!?」と狼狽していると「わかる、わかるよ、綾波みたいだもんな」と言われてもっと動揺した。

 綾波とは何か。

 戸惑っていると「え、知らないの。深夜でアニメやってて、そこに出てくるんだよ。結構学生客が話題にしてるよ、エヴァンゲリオン」と言われた。観ていないと答えると「なんだ。澤君ならそういうのも手広く押さえてるかと思ったのに」と。

 特撮ヒーローとゲームに関してはオタクである自信はあるが、アニメは観ていなかった。だが必修科目を落としているかのような言われようが、ぼくに火を点けた。あとは、好きな子に似てるキャラがいるのか? という興味も当然にあった。

 再放送は3話ずつまとめての放送だったと思う。そしてぼくが深夜に観たのは「最後のシ者」からの3話。すなわち、最終3話だ。

 劇中で、一緒に銭湯に入るまでの仲になった友人が、主人公のロボに握りつぶされ、首が落ちる。そして続く話で、主人公は「何故殺した」「何が怖いのか?」と文字で責められ、一年前に観た覚えのある前衛芸術のような映像をまた観させられた。綾波が好きな子に似ているかどうかは、よくわからなかった。

 総集編を観ればなんとかなるだろうと、ぼくは映画館へ行き『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生』を観た。総集編と銘打たれてはいたが、まったく総集編ではなかった。そしてエヴァンゲリオン量産機が空に舞って、途中で終わってしまった。

 ならばゲームで追体験だとセガサターンの『新世紀エヴァンゲリオン』を購入してプレイした。主人公のシンジが記憶喪失になりながらも謎の敵と戦ったり学校生活を送るという正史とは言いづらいストーリーのアドベンチャーゲームだった。

 音楽ならどうかと渋谷の中古レコード屋で、エヴァのサントラのうち一番あたらしいアルバムの『NEON GENESIS EVANGELION ADDITION』を探して買って聴いた。ボイスドラマ『終局の続き(仮題)』がとんでもない公式二次創作だった。

 どうしてもプレーンな全話を通しで観たかったので、LDを持っている友人に借りることにした。正確に言うと、LDの再生機を持っていなかった友人に再生機を貸してあったので、それを返して貰うついでにディスクを借りたのだ。「それがさぁ、途中で発売が止まっちゃってて途中までなんだよ」と20話分と、フィルムブックを貸してくれた。再生機を持ってないのにLDを買い揃えるオタク、偉い。

 結果、第壱話~第弐拾話までをLDで。第弐拾壱話~第弐拾参話は映像は観られずにフィルムブックで。そして第弐拾四話から最終話を再放送で。『シト新生』の残りの部分はその夏に封切られる予定の劇場版待ち、ということになった。

 こんな歪な視聴体験のまま、劇場版での完結が待てなかったぼくは、エヴァグッズを買い漁り、CD、画像集&スクリーンセーバー等が入ったCD-ROM、セガ製の玩具などを購入し、ついでにエヴァが参戦するという『スーパーロボット大戦F』の予約を済ませた。

 同時期に大学で映画を一緒に観る友人ができ、毎週のようにユーロスペースやシネクイントのような単館上映で「みんなが観てない映画」を観ては、Quick Japan片手に渋谷の喫茶店で映画の話をするようになった。見事なサブカルクソ野郎が誕生していた。

 その彼と挑んだ『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 Air/まごころを、君に』(EoE)は、何と言っていいかわからない「何じゃありゃ」というシロモノだった。ふわっと「人類補完計画って実はさぁ」とか「綾波は広末で、アスカは榎本加奈子だろ」とか言い合っていたのに、それすら許されない雰囲気で、突き放された気さえした。

 四半世紀も経った今なら、数多のエヴァ・フォロワーといえる物語をいくつも観ているし、物語を創る仕事をする過程で、ずいぶんと「文脈」への解像度が上がり、解釈に不自由することは無い。

 けれど当時のぼくには、狐につままれたような、そんな映画に思えた。私に還りなさいと魂のルフランは歌っているけど、その実、帰らなければならない場所は現実だったと。

 ただ、どこかでまたこの物語に再会したかったんだと思う。その夏から毎月リリースされるという触れ込みのDVDを予約注文した。けれど、LDと同様に20話ぶんで一時リリースが止まってしまったので、届いても観ることはなく、CD棚(当時のDVDはCDサイズだった)の肥やしになっていった。

 すぐ秋になり、ぼくは一人暮らしを始めた。綾波のフィギュアやステンドグラス調の絵が描かれた額はクローゼットの奥に仕舞った。急激にエヴァから離れたかというと、若干は残っていて、クリスマスに独りで『エヴァンゲリオン・クラシック』のCDで「メサイア」を聴いていた覚えはある。

 年が明け、大学に入ってこのかたガールフレンドなんかできなかったのに、軋むベッドの上でよくセックスするようになった。EoEの加持とミサトのあのシーンが頭にチラつくようなことは、全くなかった。

リメイクか、リブートか

 それから10年経って、2007年。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を新宿のコマ劇場で観た。「最新のCG映像で一番燃える『ヤシマ作戦』のシーンが観られて良かった」というのが当初の感想だった。そして、毎年こんな感じで新しい画質で小ぎれいにまとまった総集編を観られるのはいいな、と思った。

 10年も経った気がしなかったのは、当時のオフィスが神田周辺にありしょっちゅうアキバに行っていたのと、毎日の通り道にパチンコ屋があったからだろう。

 次に『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:破』が観られたのは2009年だった。リメイクと呼ぶには新しいシーンや変更された設定が多く、新キャラクター、マリの登場は、なんだかドラクエVでデボラが追加されたようなことなのかと思った。

 何よりも、アスカの苗字が変わったことに驚いた。これまでとは別人が現れたということなのだろうから、ここから先はもっと違うストーリーになるのかもしれない。そういう期待を抱いた。

 その上で、主人公のシンジが自分のために綾波を救い出すという熱血ヒロイズムな展開を見て、ひょっとしてあと二作で完結するというこの新シリーズは「ロボットアニメとしての決着」をきれいにつける方向に進んでいるのでは、とさえ思った。

 2010年末に、ぼくにエヴァの存在を教えてくれた高校時代の友人が若くしてこの世を去った。翌年、東日本大震災。

 前作から3年経っての『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:Q』は、まさかまさかの急展開。最新のCGアニメ映画を観ることができたという充実感はすさまじくあったが、14年後という設定から始まった物語は、再び「何を見させられてしまったんだろう」というエヴァっぽさに溢れていた。

 主人公は蚊帳の外。周囲の登場人物による一層の説明の無さに加えて、主人公もそれに食い下がらないまま人の話を聞かないスタイル。え、最後またサードインパクト? 次で本当に完結するのだろうか。あるいはEoEのように哲学的で思わせぶりなものをぶちまけられてしまうのだろうか。次回作のタイトルだって『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』へと変えられてしまった。Qの続きですらないのかもしれない。いろんなことが頭をよぎった。

 エヴァの映画はいずれも二回以上は劇場に足を運んでいて、EoEは何度観たかわからないのだけれども、Qだけはなぜか一回でいいや、と思ってしまい、劇場では未だにその一回しか観ていない。EoEの時代と違うのは、オンデマンド配信が一般的になったおかげで、追体験が別の形で、劇場以外でしやすくなったということもあると思う。

 SNSが流行っているのも時代の移り変わりだ。オタクの解説をTwitterやブログで見つけやすくなり、自分がウンウン考えるよりも、多彩で解像度の高い考察を読みたくなってしまっている。学生時代にたくさんあった「謎本」の役割がそう進化したのかもしれないし、ああでもないこうでもないと語る友人づきあいが無くなったからかもしれない。

 次回作を待ち望む合間にシン・ゴジラ。いくつかの重要なシーンのうちのある場所が、彼の亡くなった場所にとても近かったので、あいつ、エヴァの完結も待てなかったし、シン・ゴジラも観れなかったんだよな、そんなことを思った。

時に 西暦2021年

 ネタバレを回避するには公開初日に観るしかない。

 今回のエヴァンゲリオンは、本当に説明が尽くされていて、劇中で「今、何が起こっているのか」ということについて、きちんと劇中で答えてくれる。

 リツコは「Q」の時よりもわかりやすく解説してくれる。いや、これまでもそれっぽいことを言ってただけじゃなくて、ちゃんと解説していたんだということがわかる。ガフの部屋の先がよくわからないという図もスマホに表示してくれる。ゼロに最も近いシンクロ率が無限大だというところではちゃんと端末画面で「∞」を表示してくれる。ゲンドウも人類補完計画を目指したただ一つの動機とその周辺事情を語ってくれる。アスカもどうしてシンジを殴りたかったかを問い、シンジはそれに最終的に答え、しかも合っている。ヴンダーという「Q」から登場していた空中戦艦は一体何のために建造されていたのかも示される……。とにかく至れリ尽くせりだ。

 それに、いくらアニメとはいえあり得ない画がドカンと出てきて面食らいそうになるところも、これまた劇中の人物(北上ミドリ)が「あり得ない」と言ってくれる。

 目まぐるしく動く画面を見ている最中に何かにひっかかって脳が想像力を働かせてしまうと、そこで注視が途切れて観賞の邪魔になってしまうので、適度な説明はそれを低減してくれている。

 さらに、まったく違うシーンなのに、旧作をなぞっていることがわかる演出が多々あって、長年のファンへのサービスも尽くされている。テレビ版でなかなかLD化されず、初期DVDもリリースに空白の開いたあの「弐拾話~弐拾四話」あたりの味付けがされているシーンで、ウンウンと頷いてしまう。

 これまであれほど、わけのわからないものを突きつけられてきたはずなのに、「わかる、わかるよ」と、「見えるぞ! 私にもエヴァが見える!」ばりの充実感を味わわされる。

 記号的で役割を演じていて脚本のロボットみたいなキャラクターは唾棄すべきものだと日ごろから思っているのに、いや、エヴァのキャラは役割を演じたというのもありつつ、「果たした」んだと、ぼくがぼく自身の心の中に逃げ道を作って褒めそやしてしまう。

 そのホスピタリティの高さは、25年間の「エヴァってこういうもの」を形作っていた、登場人物が内心に素直じゃなかった部分にさえメスを入れてきた。

 人の感情は、長ゼリフにしたところで、説明なんかできない。だから言えないし、言って陳腐にしたくない。自分の感情は、自分だけの大切なもの。それを後半で、立て続けに明示的な表現がされていって、解呪か成仏か、キャラクター達が物語からスッ、スッ、っと「クランクアップ」していってしまう。

 エヴァっぽくないけど、これがたぶん最新のエヴァだ。

 ぼくがサブカルクソ野郎として現役だったら、ゲンドウの長ったらしい独白は、エヴァ的にあり得ないだろ……くらいの失望を口にしていたと思う。そして、エヴァの中で「失望」という単語が強い意味を持っていることを我々は知っている。その失望をかつてのぼくなら抱いたはずだ。

 でも、解呪だ失望だなんて考えたわりに、今のぼくはゲンドウなんだなということも感じてしまった。そういうところがエヴァっぽい。「あれは俺だ」とキャラクターに仮託してしまう。

 25年間「あれは俺だ」と思っていた対象はシンジだったのに、あの子やこの子はぼくにとってのレイだろうか、アスカだろうか、そんな考えを巡らすくらいにはオタクだった筈なのに。

 社会と接点を持つことが大変に煩わしくて、ロジカルじゃなくて気分屋の人間が大嫌いで、他人の厚意なんて歯痒くてどうしようもなくて、あのときEoEで鏡を向けられても呪いが解けなかったオタクは、気づいたらオッサンになってゲンドウになってしまったという話なんだと、そう思い込まされる程度には、エヴァっぽさは残っていたということだ。

 もう一度。エヴァっぽくないけど、これがたぶん最新のエヴァだ。

 説明されきっていない謎の部分もあるにはあるけれど、じゃあこれの解決を求めて、もう何作かリメイクやリブートを求めたくなるかというと、まったくそういうことはない。あの映像の通りだとするならば、ゲンドウは客車から降りなければならないのだから。

 ほんとうに、「四半世紀エヴァンゲリオン」なんてダジャレのとおりに、25年かけて最後の最後まで伴走してきたファンにもきっちり別れを告げにきた作品。Qのときと違って、なんだかもう一回観に行きたくなっているのは、さよならと手を握ってもなぜか足りずにまた握ってしまったり、別れ際に何度も振り返ってしまうようなそれなのだろうな。

 ありがとうございました。


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