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演技と殺陣と大魔神(『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』感想)

この映画に関するネタバレがあります。
※トップ画像は劇場売店で購入したクリアフォルダを撮影したもの。

ガンダムはあまり詳しくない

 ガンダムのイメージといえば「マニアが煩い」という感じで、これは本当に偏見で申し訳ないのだけれども、それだけシリーズの歴史が長く、映像も小説も漫画も本数が多く、SF的な史観や戦争と政治の関わり、モビルスーツなどの技術、キャラクター同士の関係……etc.こだわりを持てる箇所は様々なので、当然のことだろうと思う。

 そんなこともあり、あらかじめディスクレームを書いておくと、ぼくはニワカなのでシリーズ作品をそれほど知らないことに起因する浅さみたいなものについては、どうかご容赦いただきたい。

 今回観た映画『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島(以下、ドアン島)』は、あまり詳しくないぼくでも面白く観ることができた。今のところ劇場で1回、劇場先行販売のブルーレイディスクで1回、その後に原作『機動戦士ガンダム 第15話』を思い出すために視聴した。

あらすじ

 簡単にあらすじを書くと、次のようになる。

 地球連邦軍とジオン軍が戦争をしており、主人公アムロが乗船しているホワイトベース隊は、ジオン軍に侵略された土地を奪還しては次の土地へと転戦している。その中途で残置諜者ざんちちょうしゃ(戦地に残って何らかの作戦をする敵兵)がいると目される島を偵察する任務が与えられ、主人公たちは壊れた灯台のある無人島に上陸する。偵察中に主人公の搭乗するガンダムは敵モビルスーツ・ザクの襲撃を受け海中に墜落。他の味方は悪天候もあり主人公を置いて一時退却をしてしまう。

 主人公が目を覚ますと、壊れた灯台の一室であり、墜落した際のケガは介抱されていた。そこではジオン軍の脱走兵と思われるククルス・ドアンが戦災孤児たちとともに暮らしており、ザクを使ってこの島と生活を守っているのだった。彼らから見ての敵である主人公は、打ち解けることができない中、ガンダムを失った崖を探しに荒涼とした島を探索する。
 一方、ホワイトベース隊ではアムロ捜索が企てられ、ジオン軍も残置諜者との連絡が途絶えたことの解明と極秘任務のためにサザンクロス隊の派遣が決定される。

 荒天の中、アムロは動かなくなっていた灯台の照明を復旧させるが、ドアンからは「余計なことを」と言われる。ホワイトベース隊とサザンクロス隊が迫ることを察知したドアンは、同行したいというアムロへ、孤児たちを守ることすなわち同胞を撃つ覚悟を持っているかを問い、出て行ってしまう。

 ホワイトベース隊とサザンクロス隊の一部が島で鉢合わせし、交戦状態となる。地下からドアンのザクが出撃する。それと入れ違いで、ジオン兵が任務遂行のためにドアンの出入りしていた地下基地に潜入する。ここにはかねてより多弾頭ミサイルが保管されており、その発射を命じられてきたのだ。
 前後してアムロは、ドアンによって格納されていたガンダムを見つけ出し、極秘任務を終えたばかりのジオン兵を始末する。
 地上ではドアンのザクが、刺客たるサザンクロス隊を次々に粉砕し善戦するも、隊長機に追い詰められる。そこへ起動したアムロのガンダムが灯台の明かりに照らされて仁王立ちとなり、ビームサーベル二刀流で隊長機に戦いを挑む。切り結び、崖っ淵が迫る。互いに睨みあう中、ガンダムが頭部バルカンを猛烈に撃ち放ち、隊長機がバランスを崩したところを一閃。見事勝負が着く。

 地下にあったミサイルは地球各地の大都市に向けて自動的に発射されてしまうが、大気圏を越えたところで自壊し、星のように舞い散る。ドアンが脱走後に至ったこの島で、孤児たちの世話や開拓の傍らにしていた仕事とは、多弾頭ミサイルに細工を施すことだったのだ。

 戦いが終わり、ドアンの元へ孤児たちが駆け寄る。損傷したホワイトベース隊の面々とアムロは再会する。この島が平穏でいられないのは戦いの匂いがするからだと、アムロはドアンに言い、その匂いの元であるザクの機体を、ガンダムを使って持ち上げ、海中へと放り投げる。

 しばらく経って、いよいよホワイトベースは北方の戦線を目指して離陸する。島ではその機影を追いかける孤児たち、見送るドアン。奇妙な因縁の島を、アムロは複雑な思いで機中から見下ろしているのだった。

丁寧な芝居と時代劇の情緒

 とにかくこの映画は、キャラクターの所作による機微や、セリフに現れない心情をきっちりアニメーションで、キャラクターの演技と”間”で見せてくる作品です。ぼくはそんなにアニメーション映画を観ないほうなのですが、『100日間生きたワニ』もそういう表現とそこから醸される情緒に溢れていたことを思い出しました。

 冒頭のホワイトベース内で、ブライト艦長がアムロにきつく言ってしまったことをミライにこぼすシーンがあります。このシーンがなんというかとても日本映画的なんですよね。これが後に、アムロが音信不通になった際の「せめて脱走であってくれたほうが……(否、と首を振る)」というシーンに繋がる。こういう心情の接続が良い。

 島に到着したカイが、功を急いてアムロと偵察を分担するあたりも、ガンダム(アムロ)とガンキャノン(カイ)の足取りが全然違うんですよ。モビルスーツの重さという設定もあるのでしょうが、それよりも強く心情が出ている。モビルスーツをキャラクターとして描いているという評もありますが、もうちょっと言うと「モビルスーツ役の役者が演技している」ように見えるんですね。

 戦闘シーンは、モビルスーツが戦車や戦闘機のように乗り物として駆動したり射撃をしたりするのではなく、殺陣たてでした……。

 この「役者が演技している」というのを通底しているのがこの作品の要だと思っていて、時代劇すなわち「劇」であるとぼくが評する理由もそこにあります。パンフレットや監督インタビューでは「任侠映画を参考にしたところがある」旨が書かれていますが、それ以上に、劇映画として受け取れました。

 その最たるものが「命の軽重」に現れていて、最近の若い人は時代劇といえばNHKの大河ドラマくらいしか知らないと思いますが、昭和の終わりには毎日のように時代劇をやっていたんですね。

 例えばこんな感じ。うろ覚えなんで放送時期は前後してると思いますが。

月:水戸黄門 or 大岡越前
火:長七郎江戸日記 or 八百八町夢日記
水:鬼平犯科帳 or 銭形平次
木:遠山の金さん or 三匹が斬る!
金:月影兵庫あばれ旅
土:暴れん坊将軍 or 将軍家光忍び旅
日:NHK大河ドラマ

  で、毎日バッサバッサと人が斬られるわけです。辻斬りに合う、義理に背いて斬られる、押し込み強盗に遭って刺される、仇討ちだと法にオーソライズされた決闘が起こる……etc.

 こういった時代劇において人の死に情緒が発生するのは、主人公回りか、ゲストキャラクターの死が物語の顛末にかかわる場合のみ。主人公が浪人集団を斬り伏せたところで、それぞれの死に思いを馳せたりするなんてことはありません。斬られ役に履歴書が無さそうというか。

 その代わり、主要キャラやゲストの機微をきっちり描いて「人情ばなし」にしてるというバランスなんですよね。

 このドアン島もそうで、冒頭で真っ先にドアンに壊滅させられる連邦軍のシムにも、中盤でサザンクロス隊の強さを示すいかにも作劇上のデモンストレーションぽいシーンで破壊されるジムにも、まったく情緒が無い。斬られても爆発しない場合もあれば、遠くから頭部(カメラやセンサーが搭載されていると考えられる)を撃ち抜かれただけで大爆発する場合もある。
 統一されていたのは、モビルスーツの胸から腹のあたりにコックピットがあって、そこを突けば搭乗員だけを始末できて爆発はしないということ。これはアムロが後でそのようにしてザクを倒すチュートリアルだからであって、それ以外はシーンの都合で景気よく爆発する。

 こういうのも、日本刀でぶっ叩いたら峰打ちだって致命傷になるだろ? と視聴者が突っ込みそうなところを、「安心しろ、峰打ちだ」で、存命フラグにしてしまうというのと似ているかもしれない。

 ガンダムシリーズといえば、戦争を扱っていることから、命の重みを常に問いかけているかのような印象がありますが、このドアン島は、それは薄いと思っています。戦闘シーンだけでなく、島でドアンや孤児たちがしている生活も、劇なのだろうな、と見えるからです。

「劇」的な生活シーン

 巨大なクレーターのある無人島。おおよそ別の島へと買い出しでもしていなければ、整えるのは不可能と思われる食糧の数々。20人いる孤児たちの衣料にしても、ランプのオイルにしても、地下水を汲み上げていたポンプにしても、サバイバルをしなければ生活が成立しないという環境には見えません。もしキッザニアに「無人島サバイバル体験」があったら、こんな感じか?

 このへんも「劇」っぽさなんですよね。子役に戦時中のひもじい演技のほうをさせたいのではなく、あくまでコミュニティにやってくる異物としてのアムロとの関わりを表情豊かに演じることへ全振りをしたというか。そう見ると、この生活(ごっこ、と言ってもよい)を成り立たせている舞台装置はドアンになり、相当に異常な人間に感じられます。

 ドアンは秘密基地での「仕事」をしながら、孤児たちの半サバイバル生活を成り立たせ、ザクに乗ったら百戦錬磨……本気かよ!?

 海底にジムだけでなくザクも沈んでいましたから、連邦軍だけでなく同胞であったジオン軍もやっつけていたことになります。この島には脱走して辿り着いたのでしょうから、元々の残置諜者を葬って成り代わった(だから本部との連絡を途絶えたままにしてあった)と考えられます。

 かつて自身が戦地において民間人の死と孤児を目にし、良心の呵責があったとして、何がドアンをそこまで駆り立てたのでしょうか……。

 そんな背景が見え隠れしつつ、孤児たちの生活は明るく力に溢れ、ときにコミカルに描かれます。パワフルなヤギに至っては、島にやってきたホワイトベース隊の面々をハーモニー処理(止め絵)を伴って4回もどつきます。こんな動物の躍動表現、ぼくは『ガンバの冒険』でしか見たことがありません。

 食事シーン、畑仕事シーン、就寝前の誓いをするシーン、大雨にはしゃいだり、誕生会ができなさそうで嘆いたり……etc. 未来、活力の象徴に見えます。夜泣きこそすれ、絶望的な不安を煽ったり、主人公アムロを揺さぶったり、ましてやジオン軍の人質になったりということは皆無です。いわゆる「昭和のクソガキメソッド」を徹底的に避けてるわけですね。昭和のクソガキメソッドとは、主人公に近しい存在の児童が「ぼくにだってできるさ!」と先行し、敵に捕まり、主人公の足を引っ張るやつです。ぼくはあれが苦手なので、ドアン島は安心して観られました。

 アムロやホワイトベース隊が去った後、ドアンや孤児たちの生活はどうなるのか、ちょっと考えてしまいました。一年戦争の終了とともに島から離れ、都会で生活をするのかなとは思うのですが、なんとなくこの映画はこの映画で「終劇によって時が止まる」という気もしています。この劇はスタッフロールの最後で終わり。だからシリーズで紡がれた歴史との接続はあまり考えるものではないのかな、と。

大魔神として描かれるガンダム

 この映画が劇であることをふまえ、主人公ではなく「主役」といえるガンダムについて触れることにします。時代劇として考えるとガンダムは「ひょんなことから孤児たちの暮らす村に立ち寄った剣豪」なわけですが、同時に大魔神でもあるわけですね。物語の初期にドアン機との戦闘で崖から落下してしまうけれども、再登場した時の神々しさといったら!

 クライマックスシーンで、ジオン軍サザンクロス隊長機がドアン機を追い詰める。ドアン機は投石して抵抗を試みるが、高機動型ザクはびくともしない。あわや、孤児たちが目を覆う中、隊長機の頭上から降り注ぐバルカン砲!

 隊長機が見上げると、灯台が煌々と照らす中、崖上に仁王立ちのガンダム。ビームサーベル二刀流で隊長機のいるクレーター中心部へとにじり、降りる。隊長機は受けて立つとばかりにホバー推力で迫る。

 橙色の輝きを放つザクのヒートサーベルを、クロスさせた刀身で防ぐガンダム。互いに力押しとなる中、間隙を縫って崖上へと飛び上がる。足を滑らせれば一巻の終わり。睨みあいのまま徐々に距離を詰め……。

 またしてもガンダムのバルカン砲が炸裂! 全身を撃たれ、バランスを崩した隊長機に横一文字の閃光が走り、崖下へと転落したサザンクロス隊長機のザクは爆散し、海の藻屑となった……。

 このバトル、いわゆる「劇場版ロボットアニメ」であれば、ガンダムに可能な限りの理由付けをした派手な追加装備を特別に施し、縦横無尽に動かしそうなものであるのですが、徹底して「隙のない剣豪ムーブ」をするところが素晴らしい。

 冒頭で崖から落ちる前にガンダムはビームライフルを手放していて、ビームやミサイルでのドンパチはスレッガー機やガンキャノンで済ませています。ドアン機ですでに格闘戦は描写していますし、ガンダムはそれらとの差別化もあったんでしょうね。

 とにかく息を呑む緊張感が主体で、アクションは瞬間的です。

 カメラワークも、コックピット描写で搭乗者に語らせることより、モビルスーツが「演技」をしているほうに注力しています。

 ガンダム起動時も、格納庫のカーテンが敵機に剥がされると静かに瞳に光が灯り、ビームサーベルをコクピットあたりへゼロ距離で押し当てて着火というアサシン戦法。大魔神なのに忍者。任務を終えて走り去ろうとした兵も踏みつぶす。い、命が軽い! 自身の行いにしかめ面をして苦悶するアムロの表情が大写しになり、さすがに人間を重機で轢き殺すが如しの蛮行は良心の呵責があると見えますが、吹っ切り、人の心を棄てた不屈のソルジャーとして立つ。仕上がってますね、アムロ……。

 アムロという「乗務員」とリンクしていそうで、リンクしていなさそうな無機質なふるまい。村を守りたいとは願ったが、そこまでしろとは言ってないだろ! という点でまさに大魔神。

リメイク百花繚乱の時代に

 同時期に映画館を賑わせている『トップ・ガン:マーヴェリック』『シン・ウルトラマン』と並んで、続編エピソードやリメイクものとして、どれくらい原作やシリーズ作品を「擦るか」という見方をしてしまう昨今。

 このドアン島は、リメイク作品であるとともに、とても稀有な作品であると思いました。

 原作の「第15話」も配信で見直したのですが、不思議なエピソードした。監督インタビューからは、そもそもその回は「捨て回」のようなところがあり、本編スタッフに詰め込まないために、外注に丸投げして一話分作ってしまうことがあった、その回であるというニュアンスが伝わってきます。

 確かに、ガンダムやザクの作画は歪んでいるし、縦軸のストーリーとは無関係で「ホワイトベース隊のある一日」という趣です。

 だからこそ劇場版映画として切り出せたのだと思うんですが、それを現代アニメーション技法の見本のようにしつつ、先ほどのハーモニー処理のような原作当時を思わせる演出、日本映画っぽいキャラクターの芝居、モビルスーツを役者とした殺陣と、上映の2時間を余すところなく「劇」として塗りこめた作品。

 稀有というのは「こういうリメイク方法があるのか!」と驚くには、原作からの換骨奪胎ではないし、擦りすぎでもないし、精神的続編という逃げ方をする必要もなく、ド・ストレートな作品だ。もちろんドは「超弩級のド」だ。でも、ストレートって呼んでいいのか? という迷いもあります。このテイストで原作一連のシリーズは描けないのではないかと思うからです。トーンが違うというか。

 月並みですが、映画にはいろいろなやり方がある、というごくごく当たり前のことを感じてしまいました。

 劇場先行販売のBlu-ray、これを書いている途中にも再生していたんですが、見るたびに「演技いいなぁ」って思うんですよね。そういうアニメーション映画でした。

 最後に一言。森口博子の歌うエンディングテーマソング、とてもいいです……。曲の終わりとスタッフロールのラストが合わせてあり、「孤児たち念願の誕生会」を描いたイラストボードがエンドを飾るんですが、これがまた静かな幸せを感じさせて良いんですよね。

 でも真ん中にいるドアンは奇人なんだよな。主役は大魔神だったわけだし……。

(了)


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