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不登校しながらヤングケアラー、職は転々、うつ、自傷、子宮内膜症、ぼっち通院、の10~2…

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不登校しながらヤングケアラー、職は転々、うつ、自傷、子宮内膜症、ぼっち通院、の10~20代を経て、30才で広汎性発達障害の診断が下り、手帳と年金を得て、家族と縁を切って、平和になるまで。

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#番外編 発達姉VS健常妹 出勤前バトルロワイヤル―

あらすじ  縁遠かった毒家族の連絡先のブロックをきまぐれに解除した元ヤングケアラーsionan。しかし、相変わらずの毒具合にあてられ、得意の画像編集により次女の息子のコラ画像を生成し、送り付けてしまう!(無論、既読無視)  話は変わり。医療・福祉関係の手続きに必要な緊急連絡先が年老いた父親では不安だと感じたsionan。長男か次女やってくんね?と軽い気持ちで話を進めるが、そこには憤怒した次女の姿があった――(当然) 登場人物私=sionan  発達陰キャ。生い立ちはnot

    • 25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #10 end

      職場を転々②  29才の頃。私は、すでに5年の付き合いになっていた工場Sでのアルバイトを、辞めようか迷っていました。理由は、工場を経営する老夫婦が、いつまで工場を続けられるのか心配になったからです。  一応、老夫婦の息子さんが、跡継ぎを名乗り出て工場に出入りしていた時期があります。しかし「残業、休出は絶対にしない」という訳の分からないことを言ったあげく、適当に働いたのち、姿を見なくなりました。  転職活動をするなら29才~30才はひとつの節目のようにも思え、悩み抜いて。工場

      • 25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #9

        救急搬送  父に通帳管理の話を提案すると。抵抗せず受け入れました。細かく考えるのを面倒くさがっているように見えました。母は何がおもしろくなかったのか、1度ミーティングに参加したきり、拗ねた子供のようにこの件に関わってこなくなりました。しばらくして父の通帳は、社協に預けられることとなりました。これで、父が稼いだお金に関しては全て、役場と社協の職員で編成されたチームが管理することになり、固定資産税をはじめとしたあらゆる滞納の返済と、転居、土地の売却までを、第三者がサポートしてく

        • 25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #8

          不動産のHさん  実家は、祖父の代まで養豚業を営んでいました。しかし父はそれを継がず、祖父が残した田畑で生計を立てようとしますが、これに失敗。よその農園に働きに出ます。これにより、豚のいない豚舎(豚を飼うスペース)の跡地を含めた、ムダに広い実家の土地には、高めの固定資産税がかかり、それに加えて6人の子どもの養育費。家計は火の車どころか、焼き切れて破綻していました。  祖父の残した実家の家屋は老朽化が進み、床も天井も穴だらけ。あらゆる害虫・害獣のすみかとなり、それらのフンなど

        #番外編 発達姉VS健常妹 出勤前バトルロワイヤル―

        • 25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #10 end

        • 25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #9

        • 25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #8

        マガジン

        • 25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生
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        記事

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #7

          職場を転々  ブラック企業で心身ともに大ダメージを負い、精神科への通院もやめ、ひきこもってしまった私ですが、21才で再び「働きたい」宣言をします。そこから、毎日フルタイムで働けるようになるまでに、3年の年月がかかりました。その間に、顔が広い母の紹介で、3つの工場を転々とします。  結論から言うと、私は、すぐそばに他人が居る環境に通えません。"近くに居るだけ"でもダメなのです。朝のロッカールームも、昼の休憩室も、毎日混雑するようならNGです。原因の分からないストレスがじわじわ

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #7

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #6

          生命線  何もかもが壊滅的にうまくいかなかった10代。家にひきこもる他なくなってしまうほど追い詰められた私は、そこから少々変わった生存ルートをたどることとなります。  前回までに少々語りましたが、私は、アニメ・漫画・特撮を愛するオタクです。あまり上手ではありませんが、小さい頃から自分でも絵を描きますし、中学までに我流で漫画も描けるようになりました。興味のない方にはただの趣味に聞こえるかもしれませんが、私にとってオタ活は、全てを失っても尚、自身の心身を癒し、守ってくれる生命線な

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #6

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #5

          家族  引きこもり生活で太った体、伸ばしほうだいの髪の毛、荒れまくった肌、1日中ボロボロの寝間着。身なりはもっとちゃんとしたいはずなのに、その余裕がない。日が出ている間は、調子が悪い体を引きずって"家のこと"をする。夜、みんなが寝静まると、すこし気分が楽になって、夜中までパソコンで絵を描いたり、人の絵を見たり。これが、10代~20代の私の姿です。  寡黙な父がたまに発する言葉は、ろくでもないものばかりでした。「いつまで起きてる」「学校へ行かない変なやつは困る」「家事を手伝って

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #5

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #4

          ※ぼかしていますが自傷行為に関する記述があります 就職活動  高校生活の終盤は、保健室登校でした。高校3年の担任の先生は、面談を重ねてくれる人でしたが、コミュニケーション能力の弱かった当時の私が、話し合いで何かを解決できるわけもなく、集団の中にポジションをつくれないまま、高校生活は終わりへと向かっていきました。  当時、うっすらつるんでいた友人が、自傷行為の傷跡を見せてきました。その子も問題のある家庭に身を置いていました。消化できない気持ちで死にそうだった私は、腕に弱いミミ

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #4

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #3

          学校生活  小学校から高校までが私の学生時代ですが、最初から最後まで、学校に居場所をつくることはできませんでした。  周りの多くの子たちと"差"を感じ続ける毎日でした。学力、運動、会話、友情、家庭、貧富、成長…そのことごとくに劣等感を感じ、つねに苦しい思いでした。  私の"一人が好き"という気持ちも、あまり周囲に認められませんでした。はみだし者にイヤミをいう教師や生徒はいても、"一緒にいる"というのがどういうことか。それを教えてくれる人は、家庭を含め、周囲に誰もいませんでし

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #3

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #2

          幼少期  幼稚園はとくに何ごともなく通えていました。むしろ、弔事で1度休むことになったときは「幼稚園に行きたい」とごねた覚えがあるくらいです。  近所に同世代が多く、たまたまイジワルな子もおらず、一緒に遊んで当たり前。休日、仲間に呼ばれ、田舎の野山をかけ回り、時には初代ゲームボーイやファミコンをしました。  それでも、私がいちばん好んでいたのは、1人遊びの時間でした。お絵描き、つみ木、幼稚園で飼っているニワトリやアヒルに雑草をやる、座って草木をいじり続ける、テレビアニメや特撮

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #2

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #1

          今の生活 見渡す限り、田んぼしか無いような田舎の片隅で、1人暮らしをしています。実家は出ましたが、ずっと地元住まいです。  近隣の公共交通機関は、学生の通学と、お年寄りの通院のためにダイヤが組まれているようなものなので、自立して食べていくために車は必須。可能な限り安く手に入れた中古車を使いたおしています。スーパーもコンビニも車。田舎を脱出して、街をめざすとしたら、どの方角に向かっても車で20分。そんな地域にいます。  手帳と年金はともに3級。年金でまかなえない分の生活費のため

          25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #1