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不変はnot不変?

平家物語の冒頭に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」というフレーズがあります。この言葉には、「この世の無常」、つまり「この世に変わらないものなどない」ことが表されています。

この「諸行無常」という先人の言葉には納得させられるものがあるなぁと、しみじみ感じる場面が多々あります。例えば、四季折々の風景。私の家の近所にある木々のなんと変化の多いことよ、夏に緑緑しい姿を見せていた木も、冬には緑の衣の剥がれた状態に変わっているのです。あと他には、私の部屋の状態とか(綺麗に片付けた数日後には、元通り(?)汚部屋になっている)。

この言葉を初めて聞いた時(確か小学生の時?それか中学生かしら)、私は諸行無常への「対抗心」を抱きました。つまり、「この世には変わらないものだってあるんだ!」と私は思ったわけです。

さて、そのような対抗心をメラメラと燃やした私ですが、その際に私の考えた変わらないものとは一体何か。それは私自身、というよりは私の心、でしょうか。「自分らしさだけは変わらないはずだ」と、そう考えました。そして、その考えは今もほとんど変わっていません。自分らしくいようと思う気持ちは、今も大切に持っているつもりです。

ですが、私は最近、とある言葉(歌詞)を目にして、ふと思ったのです。「変わらないために、いつまでも変わり続ける」。おっと、もしかすると、「変わること」と「変わらないこと」このふたつは真逆の行為に見えて、実は同じことなのかもしれない。そう感じたのです。

そこで私は、自分が日頃ついついしてしまうような「ある習慣」について考えてみることにしました。俗に言う「癖(クセ)」ってやつです。その「ある習慣」は様々にありますが、今回はその例として、「指を折り曲げて鳴らす行為」「髪の毛先を触っていじる行為」の2つに着目してみようと思います。

私が一つ目の行為を始めたキッカケは、母親が鳴らしている姿を見て、「バトル漫画の主人公みたいで、なんかカッコイイ!」とバカげた憧憬の念を抱いたことだと、今の私は記憶しています。(今思うと本当に馬鹿げてる。笑) 私はポキポキと音をたてて鳴らせるようになりたくて、何度も何度も自分なりに特訓(?)をしました。そしてついに、人差し指、中指、薬指、と鳴らせるようになり、最終的には全ての指を鳴らせるようになったのです。今では、無意識のうちに指を鳴らしてしまうほどに。習慣化するって怖いな。

二つ目の行為の始まりは、中学時代にまで遡ります。それは、当時の部活のとある先輩の癖でした。休憩時間に先輩たちとお喋りしていたとき、その先輩は自分の話をしながら髪の毛先を触っていました。私はその先輩の姿を無意識のうちに眺めていたらしく、気づいたら私も同じ行為を習慣的にするように、つまりその行為が癖として行うようになりました。これが俗に言う「ミラーリング効果」なのか?とも思いましたが、当時の私はその先輩を大して好いていた訳でもなかったので(ただし先輩としては尊敬していた)、ミラーリングとはまた異なるものだと今は考えています。この癖は、一つ目の行為ほど頻繁にはしませんが、時々髪の先を触ることはある気がします。触ることによって生まれる、安心ゆえに。

かなり前置きが長くなってしまいました。これらの例えから私が言いたいのは、「習慣化する前の私も、習慣化した後の私も、どちらも私として変わらず存在している」ということです。確かに、その「習慣」によって、私という存在が変化していることに間違いはありません。指を鳴らせるようになった私、指を鳴らすことのできなかった私、この二人の違いは「指が鳴らせるか否か」のみですよね。←これは極論って感じだけども。

いつの間にか変わっている自分、でもその自分はいつもと変わらずにいる自分でもある。変わらないものって知らず知らずのうちに変わり続けていて、その変化ゆえに不変のままなのかもなあ、と考えている今日この頃なのです。だからきっと、「不変のための変化」は、これから先も、私のために必要なものとして存在し続けることでしょう。


今日のところは、こんなもので。




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