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40代妊活・低AMHで妊娠できるのか【⑧2院目の体外受精で気づいたこと】

〜前回までにやったこと〜
①一般検査
②タイミング法
③卵管造影検査
④人工授精
⑤ステップアップの為の転院…ポリープ発見
⑥手術〜大学病院へ
⑦初めての流産〜大学病院での体外受精

とうとう40歳

一つ目の病院で タイミング法
二つ目の病院で 人工授精
三つ目の病院で 体外受精(とポリープ等治療)
四つ目の病院で 体外受精

不妊治療を始めてからは、通院や排卵や生理や服薬タイミング等…とにかく治療にまつわる物事が生活を軸となして日々を送らざるを得ず、気づいたら2年の時が経っていた。本当にあっという間である。

40歳になり、いよいよタイムリミットを感じるばかりで、治療の終わりをいつにしようかと考えるようになった。
"最後の砦"と言われるようなクリニックに通うにあたり、"とにかく1年間みっちりトライしてみよう"と心を決めた。

この前にお世話になった大学病院の先生は、約束通りこれまでの治療の経過とともに、私の希望の不妊治療クリニックに戻れるように紹介状を書いてくれ、無事にそのクリニックに転院することができた。

病院ごとの不妊治療のちがい

転院して感じたことは、同じ体外受精といってもこんなに違うのか、ということ。

一つ目の病院では、毎日の自己注射、数時間おきの膣座薬、エストラーナテープなど、通院だけでなく日々の薬の管理にさえとても気を使いました。職場のトイレで焦りながら膣錠を入れるなど、思い出しても大変だったなぁ(涙)と。

今回のクリニックは自己注射もなく、薬は飲み薬程度でそういう意味では拍子抜けするほど楽でした。
だから、どんな病院で治療を始めるかで続け易さも変わってくるな…と今となっては思うのです。

クリニックでの治療が大変だ、辛すぎる、と感じる人は無理をして続けるより思い切って転院してみると世界が変わることもあるんじゃないかな、と強く思います。

移植1回目

クリニックで諸々の検査が済むとその月に採卵、翌月には移植となりました。思っていた以上にスピーディーで有り難かったし、"転院しよう!"と、決めてからすぐに行動に移してよかったと感じました。

40歳の採卵

ただ、この時既にAMHが0.6まで落ちていた私は、採卵をしても1〜2個しか採れず、この時も採卵の時点で2個かな…と言われていてわずか1個でした。

培養の結果が1週間ほどで出るのですが、無事に受精してくれるか育ってくれるか、気が気ではなく、1分の1の確率を祈って果てしなく長い1週間を待つのでした。

結果、この時のたった1個の卵は受精し、胚盤胞になってくれました。
が、現実はシビアで、胚盤胞のランクは5段階評価で下から2番目のD(妊娠率20〜34%)の判定でした。

普通の人ならまず選ばない胚盤胞だと思いますが、私には他に選ぶ選択肢はありません。例えどんなランクでもこの胚盤胞に託すしかないのです。うまくいく自信が全くもてないまま、移植を迎えました。

移植の不安

卵の質の不安に加えて、私がずっと不安に感じていたのは内膜の薄さでした。
10ミリあると良い、とよく言いますが、私は毎回7ミリ、良くて8ミリとかギリギリの値でした。
この内膜を何とか厚くできないかと、様々な本を読むなどして、【ランニング】【鍼灸】【温活】など、出来そうな努力はしてきましたが、自分の体質なのか最後まで変えることはできませんでした。(それでも、最終的には妊娠することが可能でした…!)

期待が薄いながらも移植をし、判定日。
血液検査での判定です。
先生「反応は出てます…が、妊娠継続する目安の数値よりかなり低いので難しいかもしれません。また来週確認しましょう。」

私(!!?妊娠してる…?!?!)

まさかの判定でした。
D評価だった卵が生き延びてくれていたことに驚き、とても感謝しました🥲と同時に、頑張ってくれる自分の卵をもっと信じよう、と思うようになりました。

この後、hCGの値は低いながらも伸び続け、1ヶ月近く経過観察が続きました。
卵は本当に頑張ってくれたのですが、7〜8週頃にとうとう成長が止まり、稽留流産の診断となります。

期待と不安と喜びと悲しみ
浮き沈みの激しい2ヶ月を過ごし、二度と味わいたくないと思っていた流産をまた経験することになったのです。

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