『セックスなんてこわくない』読書会 Lesson2「エレクトのエコロジー」レジュメ

(書籍は、Lesson、節、項という構成になっている。レジュメは、最初にページを指定して、鉤括弧で節のタイトルを略記した。その後「○何々」という仕方で書かれているのが項である。項についての説明はおおよそ要約を目指したが、そもそもが軽い調子のレクチャーの形の本であり、論理を補った箇所も多い。「→」で書かれている箇所はそれに対する、補足・解説として書かれている)

pp. 80-91「一九世紀以後の男性中心社会の…」


◯女の子は快楽の頂点で排卵する、と思われていた
 欲望、快楽、生殖という三つの事柄が、「セクシュアリティ」という一つの問題として構成されたのは、18世紀末から19世紀にかけてのことであった。
 その問題構成の一契機となったのが「女性の快楽」という謎の「発見」である。
 18世紀以前の医学では、ペニスと膣とは、形態的に対称的なものとして、凹んでいるのが膣、出っ張っているのがペニスと見られていた。それゆえ、女が男になるということもあり得るとされていた(この時代にはクリトリスは全く注目されていなかった)

→ブラックリッジ(2005)によれば、膣を内部のペニスとして描くことはルネサンスの解剖学文献で通常のことであった(109頁)。本書左下にある図は、その中でも代表的な、ヴェサリウス(現代解剖学の創始者と言われる)『人体の構造について』の図である。
 ブラックリッジ(2005)は、こうした考え方の源はアリストテレスと古代ギリシアの医学者ガレノスにあるという(109-112)。アリストテレスは、人間が男性になるか女性になるかは、その人物の所有する熱・火の量と考える(ここには四元素説の影響がある、また、四元素説では、火は他の元素より上位にあるものとみなされていた)。熱の不足ゆえにペニスを外に出すことができなかったという議論は、ガレノスにある。これは女性を男性の劣位に位置付ける根拠ともなったとされている。
 また、性転換についてもブラックリッジ(2005)に記述がある(113, 114頁)、家畜を追い回していた少女が女性らしくない乱暴な動きの故に熱を生み出し、ペニスを外に出してしまったというものである。また、女性は余計な熱を生み出さないよう足を広げすぎるな、といった警告もあったが、性転換は、完全な方向に進むがために、男性から女性にはならない(それ故男性には警告は不要)とされていたという。

 当時は、機能についても対称性が考えられていた。つまり、男性が快楽の頂点で射精するように女性も快楽の頂点で排卵すると考えられていた。したがって、不妊症は快楽を感じることによって改善されると見られていたし、妊娠している女性は快楽を感じたことがあると見られていた(これは、19世紀のヴィクトリア朝において、女性の快楽が女性によっても、男性によっても否定・無視されることとは対照的である)。

→ブラックリッジ(2005)によれば、オーガズムの目的についての研究もまた、ガレノスにはじまる(367, 368)。アリストテレスは、こちらについては、ガレノスと見解を異にしており、オーガズムは摩擦によって生じるのであって、生殖とは関係のないものであると論じた(368)。ここでは女性はオーガズムなしでも妊娠できるということが論拠になっていた(ただ、オーガズムによって精液を吸い込んでいるということは言っている)。支配的であったのはガレノスの見解であった。

◯女の快楽は生殖と関係がない、ということがわかってしまった!
 18世紀に家畜の人工授精が行われると、哺乳動物の排卵周期が「発見」された。ここで、人間についても、快楽の絶頂とは関係なしに排卵しているということが、月経において排卵が起きているということが「発見」される。
 このことは、生殖に関していうのならば、男の快楽と違って女の快楽は関係がないということになる。それまでの機能主義では説明できない「女性の快楽とは何のためにあるのか?」というアノマリー(既存の法則では説明のできない事象)が生じ「セクシャリティ」というものについての問題が生じる。
 男同士、女同士の快楽に関しては、それ以前には「セックス」とは結び付けられず、たんに身体的な快楽とのみみなされていた。女の快楽も生殖と結びついていないという事実の発見は、これら快楽と生殖として認められていた「セックス」との境界を(快楽という事柄に関しては)曖昧にするものであり、ここで、エロティックな領域としてのセクシュアリティと生殖に関わる領域としてのセクシュアリティは、ずれながら交差するものとして理解されることになる。
 田崎は、女性の快楽に対して現代の我々の社会が抱いている関心(無関心・抑圧)の由来をここに見ている。関心が目指している方向性は「どうやって女性をイカせるか」という問題とすることであって、つまり「男の欲望が促すことによって快楽が可能になったのだ」という方法で、理解不可能なこの快楽を理解可能なものにしてしまうことであると考えられる。

◯すべて快楽の場所は女の子になってしまった
 16, 17, 18世紀は、性別の変化ということが報告された時代で、シェークスピアの作品などにもその影響が見られる。現代では、性転換は大きなプレッシャーを生むものである。にもかかわらず、半陰陽の人などは、同意もなしにどちらかの性に身体を外科手術されてしまうという問題がある。ここには、本質的差異というものをそれほど認識していない世界があった。
 18世紀末の女の快楽の問題は、女(特にその快楽)を「理解できないもの」として男にとって怖いものとするものである。これをどう飼い慣らすかという問題がブルジョワ的家族・ブルジョワ的売春という制度の問題として現れる。
 19世紀にはヒステリーが問題になったが、この時にも、フロイトや性科学者はこれを性的なものと結びつけて考えた。

→女性に多い「ヒステリー」(窒息やてんかん、不安、めまい、嘔吐など)は、古代には、女性の子宮のうちに、過剰な「精液」(つまり卵子)が溜まりすぎていたために起きる病気だとみなされていた。そのため、オーガズムを得させることが治療法と看做されていた(ブラックリッジ(2005)、373-380頁)。19世紀になるとバイブレーターも発明される。一方で、同時期には、神経学、精神医学の側からの研究も行われ、催眠療法、暗示による治療も行われた。フロイトは、性的な欲望に基づいたトラウマを、ヒステリーの原因とし、このトラウマを言葉にすることで、ヒステリーが解消するということを発見した。
(追記)「ヒステリー」という病が存在すること自体は、古代から知られていた、ここで言われているのは、そうした病が再度この時代に注目されたという事柄だろう。

 この怖い「女の快楽」という問題は、ポルノグラフィーにおいて、女性がどう感じたかということを、男性の快楽よりも克明に記述する点などに表れている。こうした表象においては女性が感じるのは女性が欲望していたからであると考えることで安心することが目指されている、と田崎は指摘する。


→前節終わりでは、女性の快楽の理解の形式として、男性の欲望(「イカせよう」)が語られていたのに対して、ここでは女性の欲望と女性の快楽とが結びつけられていると考える。本文中では、「欲望」に対しては「女性の」という修飾語はついていないが「女性がムラムラしているからヒステリーになるのだ」という論旨の流れ、続く節の「欲望があって、それを満たすと快楽があるという形ではない」という文に繋げるためには「女性の欲望」と理解すべきだろう。二つの欲望は、男性の欲望に基づいて理解可能な形に表象されるイメージの中で、女性はそもそも欲望していたが故に快楽があったのだ、ということが示される、という構造を、女性の快楽を中心に形成していると考えられる。

◯欲望が快楽を生み出すわけじゃない
 欲望があってそれを満たすと快楽があるという見方は根拠薄弱である。これは、欲望を欠如と結びつけて、それに対して働きかけることで、欠如が埋められるが故に快楽が得られるというモデルで、ヘーゲル、フロイトに共通する19世紀的なモデルである。しかし、先に見たように、これを「女性の快楽」を理解するために捏造されたものと見ることもできるのである。
 女性の欲望に対して、男性が自らの欲望として働きかけを行い、女性を満足させる、という図式は、男は仕事に行き、女は家庭にいるという、(工場の成立に伴う)ブルジョワ的家族の形式と並行するものである。
 この分業形式は、動くもの(生産され、交換・流通されるもの)と動かないもの(消費されるもの)との分割ということもできる。女性は、動かないものとして閉じこもっていったのであり、例外的に動くストリートガールなどは、家の中で行っていることは交換ではない一方で、家の外で行うことは交換とみなされるのであり、この時に、主婦との線引きがされたと言える。

◯強姦恐怖症と一九世紀の女たち
 女性たちの活動に注目してみると、18, 19世紀には、貴族はサロンなどを主催、労働者は外に出て働くということがあったのに対して、ブルジョワの家庭では、家庭へ閉じこもるという現象が見られた、その理由は広場恐怖であるという。
 広場恐怖は、男性の場合も、仕事の倦怠を避けたいという気持ちのゆえにあるが、女性の場合は、強姦への恐怖があるという。切り裂きジャックの事件や文学が強姦殺人について語る一方で、都市化で見知らぬ人と多くすれ違うということが、こうした恐怖を加速させるという。

→この見解に関しては、文献を見つけることができなかった。一般的には、都市の環境の劣悪さゆえ、そもそも外に出ても何もない上、病気を避けたいということから説明されると思われる。
 (追記)広場恐怖に関しては、一方で「見られる性」としての女性というあり方からも、このような経路での作動を感覚として理解できるという意見も読書会でいただいた。

 家に閉じこもった女性たちが、小説を読むということが起きる。そうした女性たちが、自身も書くということを行なっていくがため、女性小説家が生まれていく。女性小説家たちの書いた小説の中にも、ブルジョワ的な、上の階級のお金持ちと結婚して家庭を営むという価値観が表現されているため、その振る舞いが再生産されていく。

pp. 92-106「私たちが知っているような…」

◯異性愛は女嫌いである
 男性と女性とが対称ではないという発見は、本質的に違うものを、違うがゆえに愛するという「異性愛」の考え方の源泉になっているということもできる。「異性愛」と、女性の「わからなさ」(およびそれへの恐怖)の問題との接続からは、「異性愛は女嫌いである」というテーゼが導き出せる。
 18世紀末から現れたロマン主義においては自然が賞賛されるが、それは、他人への恐怖、特に「わからない」ものとしての女性への恐怖の裏返しと考えることができる。そこには、女や他人からではなく、自然、人間以外のものから快楽を得ようという図式がある。これを、ある種のナルシシズムということができるだろう。

→あげられているルソーに関しては『エミール』での女性論が、ミソジニー的であることは有名。玉田(2016)は、ルソーが女性は体格的、体質的に男性と対等に作られていない以上、同じ仕事をさせるべきではなく、男性に愛されるよう育てられるべきであることや、書物を通じて空想上の男性に誘惑されないよう、学問は自分でではなく男性から教えられるべきであることなどを主張する。特に重要なのは、そうした女性に対しては市民とは認めないという、ルソーの市民社会論と、女性論との関係である。一方で、玉田(2016)では、こうしたルソーのミソジニーの中には、女性の本性が優れているがために男性と同じことをさせれば凌駕されてしまうという論や、例え、理想通りに女性が育てられても「都会的な洗練」を受ければ水泡に帰してしまうという指摘にみられるルソーの文化への嫌悪などが関係しており一枚岩でもないということを指摘している。

 このナルシシズムは、「こうすれば女は感じる」という他人の身体でするオナニーとしてのナルシシズムとも重なるものである。さらに言えば、エコロジーや健康志向といったもののナルシシズムも、これと関係すると田崎は考える。

→ナルシシズムに関しては、本書37, 38頁など。他人の身体でオナニーをすることが、他人の身体を物と見做して(パフォーマンスをしているのではないか問題を抜きにして)初めて成り立つものならば、そもそも物や自然を「おかず」にするロマン主義は、パフォーマンスではなく、本当にあるものを問題にして、それと交歓している以上、そうした問題を最初から考えないで済む究極のオナニーとも考えられる。
エコロジーや健康志向に関していうのならば、それは、他人との関わり合いの中でその都度生じる問題を、自分自身の原理に則して、問題として扱わないまま解消してしまう態度(例えば、様々な事情で車を利用している人間に対して、車は排気ガスを出す以上絶対に乗ってはいけないとして、議論、意見を聞くこと、事情を考えることをシャットアウトするような態度)が問題になっていて、そこで、地球あるいは人々の健康を守っているというロマン主義的満足感に浸ることをオナニーとは呼べるだろう。

 エコロジーに関して言えば、その源流の一つであるワンダーフォーゲルは、ナチスを準備したものであった。そのナチスの社会における女性の位置について考えると、不倫に関しては寛容であるのに対し、生殖に絡まない欲望や快楽を享受する身体を肯定していたかは疑わしい、子供を作るための道具としてのみ女性を認めていた国家だったと言えるのではないか。

→段落で言われていることの裏面、ユダヤ人のみならず「アーリア人」の中でも、「価値の低い」生とみなした人々に、優生学に基づいて断種手術を強いたこと、さらに、「価値の低い」女性を、強制収容所内の売春宿(政治囚も利用できた)で働かせていたということは、パウル(1996)で論じられている。また、ナチスの健康への執着に関してはプロクター(2003)という本が、肺がんとタバコの関係をナチスが示したことなどを検証している。
40頁、ナルシシズムから「お前もこのように感じろ」というファシズムを、これに関係づけてみるのならば「アーリア人」の生殖のためにセックスをする・強いられることを悦べ、ということになるのだろう。

◯なぜ「健康のためには適度にセックスしましょう」なのか?
 同様にして、今日のエコロジーには都市的なものに対する嫌悪感を読み込むこともできよう。また、健康に関しては、他人の健康あるいは趣味に合わないがゆえに、喫煙なら喫煙を避けることが、他人との関係への配慮としてナルシシズムではないのだろうが、自分の健康のためだけに喫煙を避けようとするのは、回路が自分で閉じているナルシシズムということもできるだろう。

→エコロジーに関しては、俗流環境道徳に関してこの読み込みは当たっていても、むしろ自然を一つの他者と見て関係へ配慮する——自然との「セックス」を考える——というのが、環境倫理学の主流であるとも考えられるだろう。グレタ・トゥーンベリの活動に対して割れている評価は、それを俗流環境道徳の一つのバリエーションとみなすか、この意味での環境倫理学とみなすかによっていると、例えば言える。なお、環境とはズレるが、どこまでも「他者」の問題を見ていくならば、我々は即身仏なり「よだかの星」なりにならなければならないんじゃないか、ということを論じたものとして檜垣(2018)がある。

 問題は、こうした健康への配慮が、ほとんど強迫観念的に我々に取り憑いているということである。例えば「健康のために吸いすぎに注意しましょう」というのは、単に、タバコを吸うと癌で死ぬということを言っているのではない、それは「タバコを吸う奴はインテリじゃない」という脅しにまでなっている。ここでは、健康についての一つの注意は「お前はまともな人間か」ということについての判断基準にまでなってしまっている。セックスに関しては、しすぎとしなさすぎの双方についての注意がある。その狭間で「セックスを適度にする人間だけが、まともな人間だ」という選別がなされてしまう。エイズに関しても、恐ろしいのは、エイズで死ぬこと以上に、そこで、自分自身の配慮を怠ったと非難されることの方なのである。

→このあたりの議論は、フーコーの「パノプティコン」をめぐる議論を下地にしていると考えられる。檜垣(2010)に依りつつ、フーコーの議論を整理する。
 18世紀以前における国家の犯罪者への処罰が一度の刑罰によって罪を償わせるという形を取っていたのに対して、19世紀以後においては、罰せられる人間の生全てが問題にされ、人格の規律化が目指される。この規律化の形式の範例的なものが、ベンサムの考案した「パノプティコン」である。円環状の建物の中央に置かれた監視塔には管理人が、円環の方には囚人がいるこの刑務所は、管理人がどこを向いているのかが不可視になるよう作られている。それによって、囚人は絶えず見られるのであり、そのようにして権力者を内面化・没個人化する。
 これがモデルとなるような近代社会においては、規律(本書の場合「健康に配慮せよ」「タバコを吸いすぎるな」)を我々に提示する権力者が内面化され、健康に配慮せよという声が内側から聞こえてくるようになる。そして、権力者はこの権力に対する臣従をもって初めて、個人を主体(まともな人間)とみなすのであり、そうした権力と主体との共謀関係を人が飲み込んでしまう限りで、これを服従させることに成功する。このような服従を権力は自らの目的に役立てる(例えば、エイズに関していうのならば、これに対する資金配分を後回しにすることに成功する)

◯イカス権力
 このようにして配慮が問題になる限りでは、セックスは、自分自身が、セーフセックスをしっかりできる人間であることを示すような、あるいは、女性をイカせることができるペニスの持ち主であることを示すような、自分の能力の証明にしかなり得ない。そこには、他人との交渉の中での関係というものが存在しなくなってしまう。
 セックスに関して、このような脅しを行なっているのはフーコーが「生権力」と呼ぶものである。「生権力」は、それまでの権力が端的に人を殺す権利であったのに対して、それによって人を(特定の仕方で)生かす権力である。
 例えば、マルサスの『人口論』は、こうした生権力に奉仕した議論である。そこでは、食糧生産を上回る「過剰人口」が問題として指摘されているが、これは、当時の現状としてあったというよりも、現状としての「他人嫌い」と並行するしかたで(何せ人が多いと厄介だということなのだから)、人口を抑制するよう、人々に働きかけることに成功する。

→マルサスの人口政策に関しては、フーコー(1986)に直接言及がある(129頁)。

◯権力はなぜセックスに介入したがるのか?
 マルサスの衝撃は、人口が増えすぎると貧しくなってしまうという事実の発見にあった。ここで、生き残るべきものの選定ということが問題になる。
 この選定という事態を背景にして、生殖が、権力の主要に介入する場所となる。権力は、その介入の媒介項として、個人の健康(など)への配慮を利用する。そうした配慮がなしうる人間を「評価すべきもの」であると思わせることによって、選別が可能となる。
 ダイエットブームや、セックスのうまさが問題になるのは、それが権力にとって有用だからなのであり、そうした権力は、既に内面化されている様々なメディアによって生産され、共犯関係を形成する。
 例えば、セックスとスポーツとは、以前は代替関係にあったものが、イメージとして重ね合わされるようになる。ここには「お前はセックスする資格のあるくらい、身体をうまく使える人間なのか」というチェックが入り込んでいる。
 近代的な権力は、このようにして、社会の問題(次世代の生産)を、個人の日々の実践(生殖)という水準で、扱うことに成功した。

◯国家はなぜ性病に気をつかうのか?
 19世紀以降の権力は、性病に気を遣っている。その例が、梅毒とエイズである。権力は、先述のマルサスの議論のように、選別という戦略をとる。そのため、エイズに関していうのならば、アメリカが当初予算を付けなかったように、健康を気遣わないもの、子孫を残す資格をないものというのをほったらかそうとする性質を持つ。

→梅毒とエイズとへの社会の反応の類似を指摘しつつ、梅毒においては売春婦のセックスが、エイズにおいてはゲイ男性の乱交が批判されたことのうちに、快楽の連続性への忌避、もっというならば、セックスへの恐怖があるのではないかということを指摘した文章として、ベルサーニ(1996)がある。

◯乱交しながら生き延びよう
 生権力の論理は、後の世代に障害になるような現在の世代を排除するということを許す論理でもある。アメリカのプロライフ派、また、湾岸戦争におけるイラク兵の生き埋めには、そうした論理を見ることができる。民族皆殺しもこの権力の論理に基づく。「皆」を殺さなければならないのは、現に我々にとって脅威だからではなく(それなら脅威にならない程度に殺しておけば良い)、未来になったとき、選別を行っていなければ、形成が逆転する可能性があるから、絶滅させる必要があるという論理である。我々が自分の健康を強迫観念的に気遣うことと、民族絶滅の論理とが、このようにして一直線につながっているということはできる。

→もう一度振り返ると、極端な健康志向にあっては、他人との関係への気配りなしに、自分自身についてのみ配慮がされる「ナルシシズム」が生じる。この論理を追求していった先には、未来における懸念要素すらも除外する方法として、民族皆殺しが可能になる。

 生権力が、自身の利益のために、他者排除の論理を内面化させようとする中で、抵抗する方法は「病気になって何が悪いの」というラインで生きること、接触への恐怖を払拭するしかたで生きること、どんどん乱交することである。

→今だったら、当然「どんどん人に会うこと」になるのだろう。
名前が出てきている「ダグラス・クリンプ」という美術批評家については、以下の記事が参考になる(本書の姉妹本『エイズなんてこわくない ゲイ エイズ・アクティヴィズムとはなにか?』が参考文献としてあげられている)。
https://artscape.jp/artword/index.php/エイズ・アクティヴィズム

pp. 107〜114「伝統的に恋愛関係と…」


◯恋愛はそもそも不倫であった
 18世紀貴族社会では、結婚は継承権、家同士の関係、財産交換の問題出会って、夫婦間の関係の問題ではなかった。ここでは、愛人の存在を認められる夫こそが尊敬すべきものだとみなされていた。
 一方、19世紀ブルジョワ社会では、女性が家の中に閉じこもっていたこと、サロンを開くなどの知的中心になる教育も与えられなかったことなどを理由に、女性には、子供の成長の管理という役割が付与される。
 そもそも貴族社会における恋愛は『トリスタンとイゾルデ物語』を原型とするような神話を起源とするものであった。それは、主君の妻に対する愛、不倫としての愛という形を取ったのであり、恋愛関係と婚姻関係はこの時点で区別されていた。

→『トリスタンとイゾルデ物語』は、一方で、本来、主君と妻とが結婚する際に永遠のものとなるようもたらされた媚薬を、間違えて妻と、主君に仕える騎士とが飲んでしまったという筋であり、現実として、人と人とを結びつける紐帯としての「恋愛」はあったものの、さらに、それを超えるようなものとして、神話的な「恋愛」があったということであろうか。
 なお、18世紀以前から、現代までのフランスにおける愛について論じたものとして野崎(2013)がある(18, 19世紀の理解は本書と合致している)。

◯恋愛イコール結婚の成立
 宮廷社会においては、恋愛は貴族=騎士の、戦争の延長として行われていた。ここには中世以後の社会における戦争の数の減少が関係している。
 こうした延長・メタファーの関係は、戦争の略奪と大盤振る舞いという作法を、恋愛に持ち込むことにもつながっている。財産の蓄積と継承という結婚が、恋愛と切り離されて考えられる所以である。

→もちろん、一方には、宗教的な「貞女」の発想もあったのであり、恋愛ではしばしばそうした人物の籠絡、籠絡を通じて他の家々を恥辱に陥れることが目指されたのである。この辺りの議論は、ラクロ『危険な関係』を想起させる。この小説においては、かつて恋愛関係にあった色男・色女が、宮廷内を掻き乱す恋愛ゲームを行う(女性と男性がいずれも誘惑のゲームを行うというところに、ロマン主義以前の「弱くない」女性観を読み取ることができる)。作者のラクロは砲兵であった。

 ブルジョワ社会にあっては、恋愛は不倫ではなく結婚・蓄積の側に吸収されていく。そこに、蓄積が関わっているが故に、ブルジョワ社会では、同時に、結婚が家庭の間の買収ということになるのであり、そこでは、買収が行われつつも、買収されるものが、単に家と家の関係というだけではなく、(女性としての役割を果たすかどうかということも関係してだろう)感情になっていく。

→ブルジョワについての、先の教育や性役割といった問題は、ロマン主義的女性観(先のルソーなど)とも、関係しているだろう。

◯どうやって性的エネルギーの無駄遣いを防ぐか
 恋愛を結婚と結びつけ、常備軍(18世紀末のフランス革命における徴兵制がその完成とみなされる)を持つ社会はケチくさい社会である。
その「ケチさ」が、生権力というメカニズムを通じて、「ケチな社会に奉仕する存在としての個人」の「ケチさ」になってしまっていった時に、男性の同性愛やオナニーが問題にされるようになる。
 買春が半ば公認されるという、一見これに反する事態も、しかし、同様の論理に基づいている。それは、
①恋愛結婚が蓄積の関係になることで、蓄積のできている男のみが結婚可能になる(結婚可能年齢が上がる)
②そこまでの性的な欲求を管理することが求められる
③完璧な交換関係としての買春が認められる
という論理である。同様の事態は明治期の日本にも見られた。

→女性の同性愛がここで問題にならなかったこと、隠匿されてきたことについては竹村(2002)第1章が論じている。竹村はアメリカの社会について検討しているが、本書と同様に、ブルジョワ社会において、男性が外に、女性が内にいたことをまず指摘しつつ、それによって、女性同士の内側での結びつきがどうであるかなど問題にはならなかったということ(無視)があったということが論じられる。また、これも本書と同様に「女性の快楽は(ヒステリー化されることもあるがあくまで抑圧されている)女性の欲望を覚ますものとしての男性の欲望によって引き起こされる」という論理があったために、女性同士の関係が、仮にあるとしても、欲望をめぐる関係として考えられることはなかったのだと指摘している(さらに言えば、女性同性愛の内部においても女性が自らの同性愛を欲望から切り離された純粋なものとして、描いている(ここには「女性は欲望しない」の内面化がある!)ことも指摘している)。
 同性愛の弾圧は現代まで、男性同性愛を中心にしているといえようが、竹村も指摘するように、そこには、女性同性愛の隠匿の構造があるということは重要である。

◯家庭がいちばんあったかくなった理由
 ブルジョワ社会における女性は、生活のためにセックスを売り物にするという点では、売春婦にしろ中産階級にしろ変わらない。その差異は、中産階級は、階級上昇という物語を間に挟んでいるのみである。
 それにもかかわらず、中産階級においては、(「成功した」恋愛結婚では)、それは家と家との階級上昇ゲームという仕方では理解されることなく、恋愛関係として、自分の意志によるものとして、そうした交換関係の中に参与する事になる(もちろん男性の場合もある)。

→生権力の論理からいけば、さらに、「恋愛結婚」について、優生学との関係を指摘することもできるだろう。心身の健康な者との恋愛結婚がいかに国家によって推奨されていたかについては、日本の事例を加藤(2004)で見ることができる。

pp. 115-127「家庭の機能の…」


◯室内の小宇宙はブルジョワジーのユートピアだった
 「恋愛結婚」という物語が完成されて閨房のなくなった家庭は、ブルジョワジー男性にとっては、知らないもののない、憩いの場であった。例えば、ドイツにおいて、経済の乱高下した時代は、同時に憩いの場の完成を目指す「インテリア」に人々が凝った時代であった。また、こうしたブルジョワの室内への情熱は、それをかき乱すものとしての推理小説の条件にもなっている。
 こうした小宇宙の形成は、社会(宇宙)を、小宇宙をモデルとして理解するという方向に人々を傾けることになる。それは、社会をとことん政治的・男性的なものとしてではなく、有機的なもの(ゲマインシャフト)、原初の女性的なもの(母権制)を見出そうとする態度に表出されており、社会関係の基本を家族と見る見方を作っていく。

◯親子関係がセックスの関係となり、子供の性が問題となった
 恋愛と財産継承とが結びついているブルジョワ的家族においては、財産を共有するものとしての夫婦だけではなく、親子間においても、性愛関係が読み込まれるようになる。フロイトのエディプス・コンプレックスは、そのような読み込みの上に成り立つ、親子関係=性愛関係という主張として読める。ここでは、夫-婦と親-子という、それまで全く別の繋がりとみなされていたものが、同じカテゴリーのものとして把握されている。
 その時初めて「子供の性欲」というものが問題になるが、それは問題になりつつも存在しないものとして拒絶された。子供のオナニーに対して異様に気を遣うこと(ないものとしようとすること)などに、これは反映されている。

→ビクトリア朝のスカートの話については北村(2020)が、おそらく「伝説」であるということを検証している。一方で「子供のオナニーの禁止」は、フロイトがエディプスコンプレクスの理論のうちで利用しているなど、当時見られたものであったのだと考えることはできる。フロイトの理論は、一方で、子供の性欲(≠性器性欲)を存在するものとして考えたが故に強く批判されている。このことも、より直接的な、子供の性欲を拒絶する反応だと言える。

 セクシュアリティの問題化の原因として、この子供の性欲の発見・拒絶もある。それは、男性と女性だけではなく、人間を貫くものとして、この欲望が存在することを主張するのに等しいことだったのである。性科学は、この時代に成立した学問であり、セックスと身体の接触、オナニーが共通部分を持つものとして考えられたのも、この時代においてである。もちろんこうした発見が生権力に奉仕したのである。

◯家族主義が家族を破綻に追い込んでいる
 社会関係の基礎としての家族という発想は、ヨーロッパにもアメリカにも日本にもある。

→中根(1970)は、日本社会における特徴として、年功序列の重視、ウチとヨソとの区別、職業の共通性以上に職場の共通性を重視することなどを指摘するロングセラーの書籍である。ヨーロッパ社会が完全に能力主義的(あるいは「封建的」)であるかは、ともかく、ここで指摘されていることが、ある程度支持されている、そう考えることで日本社会を特徴付けたがっている、というところには、家族主義に対する日本特有の兆候が見られるのかもしれない。

 そうした見方は、子供の非行を親の教育不足と見る見方などにも反映されている。家族に過剰な責任が押し付けられることの背景には、家庭がセクシュアリティの発現の場、そして、発現されたものをいかに統御するかを学ぶ場とされてきたことを読み取ることができる。

→「セクシュアリティ」という言葉が出てくるために、この指摘は胡散臭く感じられるが、フロイトにあっては、性愛の根源にあるものは、母親への愛着(と父親の敵意)であることを想起すると、例えば「お母さんに大事にされなかった子がいじめっ子になるのだ」のような(おそらく適切ではない、というか、そう単純ではないが)よく言われる意見のことを、ここで論じているとも読める。

 そうした家庭に対する責任の過剰が育児ノイローゼなどとも結びつくのであり、家庭を破綻に導いている。チャイルド・アビューズなどは、その一例と(さらに、家庭に性愛関係は存在する、という点で過剰に責任を押し付ける社会が押し付けたものを受け止めた表現として)読むことができる。近親相姦の禁止は、近代的家族では「実は性関係なんだけれどセックスしてはいけない」という扇動と禁止が同時に起きているものとして、「未開」社会の、性愛の対象はこの人々に限られるという、単なる限定とは区別される。

→ここでの責任の過剰に関係して、一方では、どこまでも子供の性教育を親がする(近年の「男らしさ」批判には、こうした方向に向かっているものもある)、他方では、性教育を学校に求めるという二つの考え方が現れるのだろう。そうした考え方からは離れて「性教育」なるものの権力性を疑いつつ、それを親と、学校と、社会とが教えていくというありかたも考えられる。ただ、ここでは社会における相互不信という問題(日本では1990年台から前景化したらしい)も関わってこよう。

◯フリーセックスは禁欲性道徳の当然の帰結だった
 性愛化した家庭、そして家庭の延長としての社会という見方は、「実は性関係なんだけれどセックスしてはいけない」という扇動と禁止が、社会全体で働いているということを意味する。そこで同時に働いている「お前はセックスを使いこなせるのか」という命令に対して使いこなせるということを証明しようとするものとして「フリーセックス」(これは、頁左下にあるように「思想」である)を読むことはできる。
 思想としてのフリーセックスは、したがって生権力を脱したものとして考えることはできない(それに応えてしまっているのだから)。それならばいかにして脱するか? その一つのありかたとして「禁欲」が考えられる。
 そもそも、生権力論の背景にあるのは、先のマルサスの議論のように、また限界収穫率逓減法則のように、世界・人間には有限性や希少性(ここでは欲望に対して応えるだけの資源の足りなさということだろう)があるということの発見がある。

◯欲望を気づかわず快楽に身をさらせ
 欲望があって、労働があって、快楽があるという循環が、生権力論の前提として作動している。生権力の命令に従うことによって、初めて快楽が得られるという論理である。
 こうした論理を断ち切るために、フーコーが提唱するのは「自分の本当の欲望はなんだろうか」ということを問うこと(この問い自体が権力によって構成されたもの(本当の欲望に向けて自己形成を促すものとして構成されたもの)であるのだから)をやめること、この意味での「禁欲」であり、そうではなく、快楽を探求するという方向に向かっていくことである。

→この意味での「オナ禁」はあるのだろうか?

 それは一つの「ダンディズム」、自分の身振りに対する洗練を目指すものである。そこでは、充足される欲望に向かうことなしの、一つのマニエリスムが構成されるのであり、それを、蓄積にも、機能の発揮(これはナルシシズムである)にも向かわせることなしに、他者への捧げ物として使いこなすことである。

→「他者への捧げ物」というところで、ナルシシズムと分けようとしているのだろうが、どういう論理なのだろうか。
(追記)「欲望があって、労働によって、快楽が生まれる」という図式が、生権力を支える枠組みとなっている。生権力は、「お前の欲望は何か」と問うことで、人々を特定の労働に仕向けることによって、自らの支配下(sujet)に置く。「快楽」の活用というのは、「欲望の達成」という方向ではなくて、その欲望を抱えつつ関わる他人との「駆け引き」の中に、快楽を探すことであるのではないか。
それは、「欲望の達成」という不可能な関係性を追求するのではなくて、楽しむべき関係性を増やしていくという戦略として「どんどん乱交する」ことであって、あるいは、関係性の追求から「折り返して」「なりすます」「「礼」を行う」(Hayakawa Books & Magazines(β)(2018))ということでもある。
 こうした戦略は、他にも、九鬼周造の「いき」をめぐる議論とも関係するだろう。そこには、関係の永遠性の否定と、関係性の、簡単にYESともNOとも言わない仕方での(だから楽しいんでしょう?)肯定とがある。
 一方で、乱交によらない仕方での、こうした快楽の探究はあるのだろうか。VOGUE JAPAN(2019)では、「「いき」に生きること自体を諦めて愛に落ちる「メタいき」」ということが言われているが、これは快楽の探求になるのだろうか?

[参考文献]
加藤秀一『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか——性道徳と優生思想の百年間』、ちくま新書、2004年。
竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』、岩波書店、2002年。
玉田敦子『18世紀フランスにおけるミソジニーとナショナリズム』、一橋大学社会科学古典資料センター、2016年。
中根千枝『タテ社会の人間関係』、講談社現代新書、1970年。
野崎歓『フランス文学と愛』、講談社現代新書、2013年。
パウル・クリスタ(イエミン恵子ほか訳)『ナチズムと強制売春——強制収容所特別棟の女性たち——』、明石書店、1996年。
檜垣立哉『現代思想の現在 フーコー講義』、河出書房新社、2010年。
——『食べることの哲学』、世界思想社、2018年。
フーコー・ミシェル(渡邊守章訳)『知の歴史I 知への意志』、新潮社、1986年。
ブラックリッジ・キャサリン(藤田真利子訳)『ヴァギナ 女性器の文化史』、河出書房新社、2005年。
プロクター・ロバート・N(宮崎尊訳)『健康帝国ナチス』草思社、2003年。
ベルサーニ・レオ(酒井隆史訳)「直腸は墓場か?」『批評空間 2期』特集=セックス/ジェンダー、115-143頁、太田出版、1996年。

北村紗衣「ヴィクトリア朝人は家具の脚が恥ずかしいからカバーをかけたわけではない~イギリス文化と性にまつわる神話探訪」、wezzy、2020年。https://wezz-y.com/archives/81832
Hayakawa Books & Magazines(β)「ハーバードと京大の学生が熱狂する、孔子や荘子の新しい読み方とは!? マイケル・ピュエット著『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(6/19発売)中島隆博教授の解説を一挙公開」、note、2018年。
https://www.hayakawabooks.com/n/n21fce71dc76e
VOGUE JAPAN「宇多田ヒカルに出川哲朗!? 哲学者、千葉雅也と考えた「いき」の美学。」、VOGUE、2019年。
https://www.vogue.co.jp/lifestyle/interview/2019-04-01/masaya-chiba

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