ダーウィン『人間の由来』読書会、第3章「人間と下等動物の心的能力の比較について(続き)」のレジュメ(各段落の要約とコメント)

底本としたテクスト:ダーウィン、チャールズ・R(長谷川眞理子訳)「第3章 人間と下等動物の真的能力の比較について(続き)」『ダーウィン著作集1 人間の進化と性淘汰Ⅰ』、文一総合出版、1999年。
(同訳者の、文庫化前の訳書)

以下、「」+段落となっている箇所で、段落を指示(48段落)及び要約。その後、編みかけ部分は、段落に関する疑問・コメント(だいたい編みかけ一つにつき一コメント)。


「人間と下等動物とを…」
 ダーウィンは、「人間と下等動物とを分けるすべての違いの中で、道徳観念または良心の存在が最も重要な違いである」という見解を他の論者と共有している。それは、「他のどんな原理にも正しく優先する」「べき」という語に集約されているが。この心情の起源は哲学においても問題にされてきた。

「この重大な疑問は…」
 この疑問は、〔人間と下等動物の連続性を考えている〕ダーウィンにとっても、避け難いものであり、それに自然史の観点から、また、下等動物の研究から何が言えるかを確かめる必要がある。

「以下の提言は…」
 「よく発達した社会的本能を備えた動物ならば、それがどんな動物であれ、その知的能力が人間のそれと匹敵するほどに発達すればすぐに、必然的に道徳観念または良心を獲得するだろう」
 理由は三点。
①「社会的本能」は、それを有する動物に、暮らしを共にしている仲間への共感を抱かせ、奉仕へ導くものであるから。
②心的能力の発達した動物にあっては、「過去の行為や動機のイメージが絶え間なくよぎることにな」り、〔これが「社会的本能」を形成する。〕こうした本能は、空腹のような、一時的だが強力な本能に負けた時には、不満足感を生じさせるものであるから。
本能的共感のために、進化において表現の能力が獲得され仲間の要求がわかるようになった暁には、それを受け入れようとするものだから。しかし、ここでの「受け入れようとする」傾向性には、個体の習慣が大きな役割を果たす。

「よく進化した社会的本能」とは何か? 「社会の起源」をめぐっては、例えば、「社会契約説」すなわち、最初に分離された個人同士の権利を「自然状態」として想定し、その「万人の万人に対する闘争」状態を回避するために、各々が権利を譲歩し合うことで社会が成立するという説があるが、「社会的本能」とは、動物が「本能」として持つもののうち、これを行う能力のことを指すのだろうか?
 この説が機能するとして、そこには、どのような条件が必要であるのだろうか? 上野修は、『デカルト・ホッブズ・スピノザ』の諸論文において、「権利を譲歩し合うときに、周りが譲っているのを出し抜いて自分は譲らないのは、あるいは、出し抜かれることを想定して譲らないということをしないのは、なぜか」という仕方でこれを問うており、それは、論理的には、①権利譲歩という契約に関して、他の人の先なる履行があったために、契約が成立してしまっていたから(この時、他人は、私の契約を、「まともな契約」として聞き做してしまったのであり、守る義務がそこから生じてくる)、また、自我の問題としては②おおよそ、自分を差し引いた残りの人々が、それを信じているのか、信じていないのかわからないためである、という結論を出している。
 もし、契約説のようにして「社会性」(契約説でも「道徳」はここから帰結するだろう)を考えるのならば、動物は、以上の操作が行える必要があるということになるかもしれない。
一時的で強力な本能が満たされない時にも、不満足感は生じるのではないか? ここで、一時的本能は不満足感も一時的であるがゆえ、不満足感としては弱いということにはならない。なぜならば、強い本能は、それが満たされない限りでは一時的だろうが永続的だろうが不満足であり続けるのであるからである。むしろ、二つの本能が衝突するという見方では、「強力な」一時的本能の方が常に勝ってしまう、勝たせるのが個体における満足は大きくなるのではないか?
この「本能の習慣による強化」という考え方は、どういうものなのだろうか。「本能の強化」とは、(ダーウィンは行動を諸本能のベクトルの足し算のように考えているだろうか)「さまざまな本能の中でそれが優先されるべきものとなる」というような事態であろう。しかし「習慣」が「今まで、さまざまな本能の中でそれを優先してきた」という事態であったとしたら、最初に「優先」を与えるのは、別のもの(教育?)であり、「究極的に大きな役割を果たす」のもこれであろう。

「まず初めに…」
 このような本能から帰結される道徳観念には、動物と人間とでは差が生じうる。美的感覚の種差と同様、道徳感覚の種差も考えうる。
 どの個体も、いずれの衝動に従うべきか、過去の印象を有する限りはそれに基づいて選択を行う。その中で良心という感覚を獲得する。

個体内部での判断からは「自分はどっちを選んだほうが上手くいくのか」ということが出てくるのみである。もし、ダーウィンの議論において、それが種における良心となるのならば、ここでは書かれていないが、そうした各々の(長い目で見た)利己的行動の集積=良心ということになる。
 訳註の至近要因・究極要因の区別は、至近要因としての利己的な判断からは、適応的に有利なものとしての「良心」は出ないということを言っているのだろう。こうした区別が必要となるためには、各々の個体における「良心」は、究極的には、種の適応的有利性に基づいているという想定が必要になる(これは、ダーウィン自身のこの章の議論にはない)。しかし、ここで「個体における「良心」」とはなんなのだろうか? それは、日常的な語法とは異なるのではないだろうか? 適応的有利性に則して、我々が自身の行動を後悔するということはないだろう。あるいは、こうした区別は、ダーウィンがここではこれ以上言及しなかった「自分の兄弟を殺すのが聖なる務めであると信じ…」以下を「至近要因」として考えられないが故に、導入せざるをえなかったものに過ぎないのではないか?

「多くの動物は社会的で…」
 「多くの動物は社会的である」。そうした社会性は、異なる種同士が一緒に住むことすら起こす。高等動物の間で見られる奉仕の典型例は、「みなが一緒になって感覚をはたらかせることにより、たがいに危険を知らせあうこと」である。

ここでダーウィンは、複数種からなる「社会」を情動的共感の側面から描いているが、これは「究極要因」の観点から考えるのなら、自分と異なるその種といた方が適応度が高いという判断を各々の種がしていることになり、そこには共感はないことになるだろう。

「動物は、たがいに…」
 「もっと重要な奉仕」として、協力した狩り、防衛がある。

「動物たちは自分の…」
 動物たちが仲間に対して愛情を感じることは正しいにしても、共感があるのかには疑問の余地がある。少なくとも、傷ついた仲間を殺す場合を考えれば、ときとして無い場合があるのは確かだろう。

[(文章解釈に関して)二文目「彼ら」は、「社会的でない動物のおとな」ではなく「動物たち」だと考えられる。その後の例で出てくるウシが、先に、仲間のために防衛を行う動物とされていたからである。]
 「他者の感情を自分のもののように感じている」ということがないのならば、「危機の伝達」ということはできるのだろうか? 「あなたにとって危険なものが来た」というメッセージは、「そのものはあなたにとって危険である」という判断を前提し、それは、他者の「危険」という感情(と、とりあえずする)を、自分の感情と比較考量する事を必要としないだろうか(これは、自分の感情の側から見るのならば、カントの「共通感覚[共通感官]」論とも関係して考えられるかもしれない)。
ダーウィンが「仲間」を、互恵関係などではなく「暮らしを共にしている」ということで考えていることに注意。「互恵関係」ならば、傷ついた時点で「仲間」ではなく「餌」になったとも言えるのではないか。

「しかし、多くの動物が..」
 傷ついた動物を仲間が助ける事例は、その援助を一つの本能として考えるにはあまりに頻度が少なく、仲間の感情を自分のもののように感じ取っているということの証拠となるだろう。

いっぱい見られるならそれは「本能」だ、というこの語の使い方は適当過ぎないだろうか。
前段落で、ダーウィンは「仲間に対する愛情」と「共感」を区別している(そしてそのことは「物への愛情」という言い方があるようにおそらく正しい)ことからすれば、このことは、共感ではなく愛情とも考えられるかもしれない。

「勇気あるイヌを…」
 〔上記の具体例〕

「愛情や共感のほかにも…」
 動物は、愛情と共感の他に、「忠実さ」などとも言えるような道徳的性質を示すことがある。リーダーに従う動物は、危険にあっては、それに忠実に従い、従えないものを嗜めることもある。

「ある種の動物たちを…」
 仲間と助け合おうとする衝動は、諸本能と同一の満足感・不満足感によって動かされている。本能を動機づける恐怖が、目的としての自己保存や、敵へ向けられたものとして分析できる一方で、快楽や苦痛はそれとして分析できないが、全ては遺伝の力で決められているのならば、そうした刺激は必要ないのかもしれない。

この辺りは脚注4 至近要因と究極要因の区別に関する混乱と、今なら解釈できる箇所ではないか。「必要ない」というのは、究極要因的記述を行うときにはそうであるのであって、あくまで至近要因として考えるのならば(究極要因に基づいて判断された)「快楽や苦痛」によって行動が確定されているという立場は保持できる。

「そもそもの初めから動物は…」
 社会生活を送ることが利益になるような動物が、主に自然淘汰によって、仲間とともにあることの喜びを発達させたのだと考える方が、喜びがまずあって、その後に社会生活が来るという見方よりありえそうである。それは、親や兄弟姉妹間の愛情の拡張だろう。この元となる愛情も自然淘汰によるものだろう。

すると、「推測してみても無駄」ではなく、まさしく、問題は、親や兄弟姉妹間の間にはどうして愛情が存在するのか? ということになるだろう。精神分析では、(ともかくは人間に限ってだが)親への愛情は「まずは個体としての自らに栄養を与えてくれる」というところから考える(この点、この感情自身が、自然淘汰によるものだという見方はできるだろう)。分析理論では、兄弟姉妹間で最初に存在するのは、そうした愛情を奪い合う敵同士の関係であり、反目の感情である。

「共感というのは非常に…」
 共感は愛とは異なる。愛するからといって共感がなされているわけではない。
 共感は自らの経験を記憶しており、それが、今想起されることによって生じるものだが、すると、なぜ、愛する人物に対してより大きな共感を持つのかはわからない。権利上どんな人間の苦痛ですら連想には十分なのだから、元はそこまで共感していたのが、いつの間にか、愛する人物だけに向かうものになったようである。
 厳密に社会的な動物にあっては、共感はすべての個体に当てはめられる。人類にあっては、それを助ける習慣として、「利己性」「経験」「模倣」があるだろう。
 援助の動機としての共感は集団を栄えさせるために、自然淘汰で、増強されたに違いない。

「ある種の社会的本能が…」
 社会的本能が何によって獲得されたのか、自然淘汰か、他の本能の間接的な結果か、習慣の結果かを決めるのは、多くの場合不可能である。

「さまざまな本能や…」
 諸本能には喜びや不満をもたらす程度に関する強弱がある。一方で、それとは関係のない、単に遺伝的な本能もある。〔遺伝的なもののように〕いくつかの本能は特に直すことが難しく、本能同士の葛藤が起きることがある。

「ある本能的な衝動が…」
 種にとって有利な本能は、自然淘汰によって強化されるに違いない。ただ、本能の強弱は、生物の外部の時間に影響されることもありうる。

「ほとんどの人は、人間が…」
 人間は、その祖先が有していたであろう多くの本能を失ったが、社会性、すなわち、愛情、共感、忠実さ、克己心、服従の能力は、遺伝的に受け継いで、今も有している。

「最も下等な段階に位置する…」
 下等な社会的動物では、仲間に対する援助はほとんど本能に基づいている。一方人間は助け方を教えるような本能を有していないが、それを、理性と経験によって導き出している。また、共感の能力は、賞賛を評価する能力へと結びつく。これは、行為を賞賛されるために行おうとする利己的欲望とも結びついてしまう。しかし、習慣によって、人間は、自らの感情と独立に仲間の判断の正当性を評価できるようになる。

「しかしながら、私たちは…」
 人間が諸本能の中で、とりわけ社会的本能を優先させるのはなぜか。

「まず最初に、人間の…」
 考えたり快楽や苦痛の感情を伴うことなしに、人間が他人を救う行動をすることからは、母性本能や社会的本能の強さが観察される。

「上にあげたような衝動的に…」
 衝動的行為もまた道徳的行為と呼べる。それは、人間が、「自分の過去および将来の行為や動機を比較し、よいことと悪いこととの判断をつけることができるような存在」だからであり、そのようにな動物によってなされた行為は、原因によらず道徳的行為とされるからである。

この箇所は、明らかにおかしい。道徳的判断が可能な限りで道徳的動物なのであれば、その判断が介在していない箇所での行為は、そうでない動物と変わらないのであり、「道徳的」という言葉を頭につけることはできないだろう。

「しかし、もっと緊急の…」
 通常人間にあっては社会的本能よりも他の本能の方が強い。それならば、なぜ、他の本能に従った後に[深く]後悔するのだろうか。

19段落[「しかしながら、私たちは...」]の提起にも関係して「深く」を補うべきであろう。そうでなければ、諸本能のうちどの本能が満足されなくても、不満足な本能が、満足を目指し、後悔の念を生み出すのは当然のことだからである(「ご飯を食べておけばよかった」「お手洗い行っておけばよかった」など)

「人間は、その心的能力の…」
 人間にあっては、過去の印象やイメージが常に心をよぎっているほか、常に社会的本能も働いている。一方、自己保存の本能は、危険が目前にない限りは感じられない。
 
「つまり人間は、過去の…」
 過去の印象と、社会的本能=善の意志の本能という常に働いている二つの間では、比較が絶えず起きる。印象のうちで、例えば盗むことによって充足された本能は、今は感じられないほどに弱まっている。一方で、常に働いている、善の意志の本能は、まだ強い。そのため、比較の最中には、強い本能が弱い本能に負けたということになり、不満足が生じる。

「行動の瞬間には、人間は…」
 この不満足から、将来は強いて別の行動をしようと決心するのが、良心である。良心は、過去を振り返り過去を捌くことに由来する。

この「良心」は、4段落[「まず初めに...」]の動物の「良心」とも対応しているだろう。

「これらの感情が、他の…」
 満たされなかった本能にはそれを満たすことを促す感覚が伴っている。上記の不満足から良心というプロセスは、遺伝によっても受け継がれつつ、特に人間をその本能の充足に向かわせるのであり、人間はこれによって克己心や「べき」を獲得する。

ダーウィンはここで遺伝を「十分あり得る」と言っているが、ダーウィンの想定のうち、諸本能の中に社会的本能があるという最初の状態と、今、人間が道徳的であるという事態とを、二つ受け入れるのならば、遺伝を持ち出すしかないだろう。他の本能が強くなってもいい(とにかく食べることしか考えない人間などいても良い)のに、そうではない理由が、種の単位で必要となっているからである。

「他人の利益に反する行動へと…」
 過去のことになってもなお社会的本能に勝るほど強い本能の方に従って、他人の利益に反する行為を行なったときは、それほど強い後悔の念には駆られないだろう。しかし、そのことを他の人に知られるという事を考えたときに、後悔しない人間はいないに違いない。ここで後悔しない人間は本質的に悪い人間である。
 そのような人間は、罰への恐れと、他人の利益も考慮した方が自分の利益になるという考え方のいずれかによってしか制御され得ないであろう。

「もしも、欲望が…」
 欲望は、社会的本能のほか、(正当であれ不当であれ)非難されないということ、習慣に反さないということ、信じている神に反さないということを充足する限りでしか満足させられない。

「私たちが何をするべきかを…」
 上記のように本能を起源として特定の性質を持つ道徳感情は、粗野な人間の道徳によく合致する。彼らの間では、道徳は同じ部族のうちでのみ履行されている。その上、赤の他人のものを奪うことは、ここでは名誉なことと考えられていた。

「奴隷制の大きな罪は…」
 未開人はほとんどの場合他人の苦難を喜ぶ。また、忠誠心に関しては、真実を大切にすることで獲得されるものであり、赤の他人に対してなされることもある。しかし、敵に嘘をつくことは、滅多に罪とならない。

エドマンド・バーク『崇高と美の観念について』では、苦難に関しては、その共感は常に喜びを伴うものであると論じられている。それは、人々が他人の苦しい話をもっと聞こうとする事から明らかであるとされ、悲劇の快も、この喜びから考えられている。

「野蛮な時代には、勇気なしには…」
 勇気は、野蛮な集団でも必要不可欠のものゆえ賞賛されていた。必ずしも必要のない今も臆病で善良な男よりは、勇敢な男を賞賛したくなるのが本能である。
 用心深さは、他人の利益には関わりないものなので賞賛されることはなかった。自己犠牲・克己心・忍耐は部族の幸福のために必要ゆえ高く評価されてきた。

この「本能」は適当すぎだろう。

「これら以外の利己心に…」
 部族の利益になることがすぐ明らかでないような美徳は未開人の間では評価されない。未開人は途方もなく淫らだが、婚姻が一般的になると、嫉妬心が芽生え、それが名誉ともなった。貞節、禁欲生活も、文明化した人間の間では、名誉あるものである。

「このように、未開人たちの…」
 未開人の間では、行動に対する評価は、種のためでも個人のためでもなく、部族の福祉のためである。このことは、道徳感情が社会的本能から派生して、普遍化していったのだという考えに一致している。
 私たちが未開人の道徳観を低く感じるのは、未開人にあっては、共感が同じ部族に限られている上、理性の力が十分でないために、彼らは、部族全体の福祉に多くの美徳がどう関係しているかも知らなければ、さまざまな美徳のかけていることがどれだけ悪を導くかも知らない。
 さらに彼らは自己抑制の力が弱い。これは、遺伝によって受け継がれたり、教育や宗教によって強められることがなかったからであろう。

「私は、ここに未開人の…」
 未開人は部族のための道徳を発達した形で有していることがあるため、道徳的性質を高く評価する人々もいるが、それは誤りである。

「倫理の派生主義学派の…」
 道徳の基礎を「最大幸福の原理」におく見解は、基礎を「社会的本能」におく見解と本質的に同一である。
 下等動物の本能は、集団の一般的な善、すなわち「彼らがさらされている条件のもとで、健康で元気がよく、その持てる能力が完全に揃った個体を、できるだけ多く育てることができるような手段」のために発達してきた。従って、道徳の存在を検証するためには、ここから始める方が良い。

道徳を、このように基礎づけるということは当然、道徳原理としては「より適応的なものが、より道徳的である」ということになる。

「人間が身を危険にさらして…」
 福祉(集団が繁栄すること)と個人の幸福は普通は一致するが、幸福よりも種の繁栄を第一原理にしたほうが、道徳の基礎が卑しい利己心にあるという非難を免れられる。ただし、これは、種の繁栄に寄与する行為をすべての動物が行うことを「利己的」と呼ばない限りにおいてである。

ダーウィンは、ここで「卑しい」とみなされるのはまずいと言っている事からも、事実問題として「道徳の基礎はどこにあるか」という話をしているのではなく(事実はどれほど反感を買おうが事実だから、このような非難を回避する必要はない)、「どこに道徳の基礎があるとして、それに従うものを道徳的、そうでないものを不道徳というべきか」という規範の問題をしていると言えるだろう。
 わざわざ種の繁栄という事態に結びつけてまで、一つのあり方を他のあり方よりも優れているという規範・「べきである」を正当化しようとすることの方が、議論の全体が、そもそも「利己的」なのではないかとは言えないだろうか。

「同じ集団に属する…」
 一般的な善に対して、仲間の望みや判断は二次的な道徳指針である。しかし、両者が相反するとき、後者の方が、我々に苦悩をもたらすことが大きい。

ダーウィンは本章でも何度か、それが正当か不当かによらず非難されることの苦痛について書いているが、「道徳の基礎付け」という仕方で本当にしたかったのは、他人の前で非難された時にそれは二次的だと言って苦痛を回避することなのではないか。

「行いに関する不合理な…」
 若いうちに繰り返し教え込まれた信念は本能と同じような性質を帯びるようになるものであり、本能は、その本質として、理性とは関係なく従われるということは、先の苦悩の大きさの理由の一つであるだろう。
 理性と本能とのこのような関係は、克己心に関する道徳が、初期の人間にはなかったにもかかわらず、〔我々が理性とは関係なく用いることができるほどに、繰り返し教えられたために〕いまあまりにも自然に思われることとも関係していよう。

「疑問の余地は…」
 社会的本能に基礎をおいた道徳規則は高次のものであり、仲間の賛同や理性に支えられる。自己に関する道徳規則は、野蛮な部族では見られていない点で、公共の意見に起源を発しながらも、低次に位置付けられる。

「人間の文明が進み…」
 文明が進むと、社会的本能と共感は拡張されなければならない。それは、外見や習慣が異なるもの同士の間では特に長い時間かかるものである。

「私たちが到達することのできる…」
 道徳の最高の段階とは、過去に楽しんだ罪についてもう考えなくなるよう思考を制御した状態である。

「われわれの偉大な…」
 よい性癖、悪い性癖は遺伝する。そうでなければ、異なる人種間で道徳が異なっていることを理解できなくなってしまう。

「道徳的性質が部分的にしか…」
 道徳が部分的にしか遺伝しないにしても、仲間からの賞賛を求める社会的本能がその形成に役立っていることには違いない。
 また、仮に遺伝するにしても、人道的態度に関しては、存続のための優位というよりは、同じ家族の中で続いたことが原因だと思われる。というのは、意味のない習慣や迷信はそのようにして継承されるのであり、それと道徳とは同様に継承されると考えられるからである。

「最後に、人間においても…」
 人間においても、動物と同様〔12段落[「そもそもの初めから動物は…」]〕、集団の善のために、社会的本能が獲得されたのであり、初期には、共感の感情が道徳指針を与えていたに違いない。それが、知的能力が進むにつれ、広く、詳細に適用されるようになっていった。

「下等動物でも、異なる本能どうしの…」
 〔良心に関して、25段落[「行動の瞬間には、人間は…」]とほぼ同内容〕。将来の世代においては、道徳は遺伝によって固定されることもあるかもしれない。

社会的本能が弱まっていくという恐れがない一方で、それ以外の本能が弱まる恐れもないのではないか。だとしたら、どの世代まで行っても葛藤は避けられず、「美徳の勝利」は起きないだろう。

「最も野蛮な人間の…」
 類人猿は畑を襲う計画を立て、石を使えても、道具は作れないだろう。抽象的な思考を行ったり、自然を愛でることもできないだろう。一方で、結婚相手の肌や毛の色を愛でることはできるし、それをしていると主張するに違いない。
 類人猿は感知したことや欲求を伝えられても、特定の音声で特定の概念を表現することはできまい。また、同じ集団の別個体を助けることがあっても、全ての生き物への無償の愛情を持つことはできまい。

「主張」は、特定の音声で特定の概念を伝えられないのなら不可能だろう。だとすれば「肌や手の色を愛でる」といった事をしているとも言えない。

「それにもかかわらず…」
 しかし、高等動物と人間のとの精神の間は連続的である。下等動物の中には、人間の能力に対応するものの初歩的な状態があり、さらにそれは遺伝によって向上できる。
 道徳感情も、その萌芽は社会的本能として様々な動物にあるのであり、それを知的能力と習慣によって道徳としていったのである。

「これからの章で…」
 以下の章では、人間の心的及び道徳的性質の発展史について見ていく。

(終わり)


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