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上代から中世の文学を大雑把にまとめる

 画像は、京都国立博物館のホームページから頂戴いたしました。これは、源氏物語絵巻という巻物です。私の母校にもレプリカがあり、なじみ深いものです。

 さて、今回は日本上代,中古,中世における日本文学の歴史について大雑把にまとめてみました。表記ゆれ,誤字脱字はありますがご容赦を。

 「文学」というこの言葉には様々な背景が秘められている。特に、日本文学史にはその背景が多く詰まっている。文学をはじめとした様々な物事の全てには、何らかの原因や要因が存在し、全てが一種のつながった時間軸といった関係性を保持しあっているということである。では、この関係性が表立って発生するようになったのは、いつごろからだろうか。

1.日本文学の発生要因とは?

 日本文学の発生には、中国大陸の存在が大きな影響を与えてきた。その始まりは、詳しい文献が存在しないものの紀元前500年頃、中国春秋時代の思想家であり儒教の始祖として知られる孔子が居た時代にさかのぼる。

 その後、紀元前220年頃、魏呉蜀の三か国が台頭する三国時代においては、邪馬台国は卑弥呼なる女王がいるといった記録が残るようになっていた。紀元前221年頃、始皇帝によって秦が建国され社会インフラ整備の一環で文字なども文化構築の一環で整備され始めていた。

 紀元0年頃の日本、言葉はあったものの、文字は存在しなかった(口承文学は存在していた)。このあと、400~600年後に人、もの、金、知識の一つとして仏教や漢字が伝来した。また、水稲耕作が盛んになり組織的な行動の必要性の向上とそれに伴う指導者の誕生、人間コミュニティの定住化などにより、高度な人間による文明社会が形成され始めたことも相まって日本文学がはじまった、つまりはその原点ないしは発生要因がここにあるのではないかとされる。この伝来された文字を使って神話などの伝説、歌謡などを文字化し、関係性を表立たせた頃が同じ時期である。

 さて、日本文学誕生以後、口承文学から記載文学へ移行する上代、文字を主として使用していた王朝貴族の文学が栄枯盛衰した中古、文学の多様化が著しかった中世と3つの時代が順を追って進んでいく。

2.上代の文学

 上代の文学は、文学誕生から桓武天皇による平安京遷都が行われた延暦十三年までとされている。祭式の場で謳い謳われた詞章は文字に頼らないために、口承文学と呼ばれていた。先述したように漢字などの伝来により、人々が次第に漢字に習得していくようになったことにより記載文学が始まる。のちに、神話や歌謡を表意文字に書き表すには大きな困難があったため、固有に伝承された国語を表意文字として表記する独自の工夫がなされてきた、それが万葉仮名発案へつながる。ゆくゆくの平仮名・片仮名の基礎である。

 上代の文学には、どのような作品があるのか。その一番初めに語られるのが、古事記と日本書紀である。『古事記』は和同開珎が流通しだした和同五年に成立した日本国内向けの歴史書である。壬申の乱に勝利した天武天皇がその正当化を図る政治的意図をもって、稗田阿礼が招集した帝紀と旧辞などを大安万呂に選録させたものであるが、そこには文学性豊かな神話や伝承・歌謡が具体的に叙述されていた。文体は漢文体のようにも見えるが、漢文体のルールに従っていない箇所があるのも特徴である。

 『日本書紀』は、養老七年に天武天皇の修史の意志を引き継いで舎人親王らによって編纂された対外向け国威ないしは国権の発意発揚を意図した歴史書になっている。記録することが重点されていたため、古事記に比べて文学性は低い形になっている。また、対外対象が中国大陸であったためにルールに従った漢文体を用いたことも大きな特徴である。

 日本書紀が編纂されたあとに、元明天皇の命により日本の諸国は地誌情報を報告するために『風土記』というものを書かせた。播磨国や常陸、出雲、肥前、豊後などで執筆された風土記が今もなお現存している。これらは、地誌情報だけでなく各地域の神話や伝説、人民の日常生活や心情をうかがえる内容にもなっていた。風土記のような地域レベルのものもあれば、一族ベースで書かれた『高橋氏文』などもあった。このころより、800万の神々を祭る言葉も厳粛で洗礼された内容になってきた。それが祝詞としてまとめられ、宣命書の表記で書かれた延喜式とよばれるものにまとめられてきた。このころより、「うた」が変化成長していって「古代歌謡」といった形になっていった。古事記や日本書紀に登場した古代歌謡を記紀歌謡と呼んでいる。そして、上代最大の日本文学が『万葉集』である。大伴家持が八世紀ごろ20巻に編集したとされている。天皇から庶民までの話を広く集めたものになっている。歌風は全体を通して、写実的ないしは具象的で、素朴な感情を素直に読み上げたものになっている。防人歌や東歌がどの代表例である。このほかにも、中国詩学を基にした歌学書『歌経標式』などがある。

3.中古の文学

 中古の時代は、平安遷都後から鎌倉幕府成立までに栄枯盛衰した王朝貴族文学の時代である。このころは、藤原氏が栄華を極めた時代でもある。このころの代表的な作品が、古今和歌集である。醍醐天皇の命により紀貫之らによって編纂された最初の勅撰和歌集となっている。万葉集以後の和歌を集めたものになっている。

 日本最初の文学論である、紀貫之の仮名序や紀淑望の真名序なども付されていた。歌風は優美繊細な特徴がある一方で、掛詞や序詞、縁語を駆使した言葉によって構成された観念的・理知的な文体の傾向がある。それ以降に、8個の歌集が続き『八代集』と呼ばれる。余情を伴った幽玄体を尊ぶ千載和歌集などの登場により、新たな和歌の概念が生まれ始また。

 同時に、伝奇的要素を多く含んだ物語文が登場し始める。現存最古の竹取物語、琴の名手に求婚する長編物語の『うつほ物語』や継子いじめの『落窪物語』などが有名である。伊勢物語もまた歌作りを基盤とした和歌中心の歌物語としては代表格である。在原業平と思しき男性が元服直後から辞世の唄に至る一代記125段をまとめ構成された物語である。主人公の恋物語や友情物語が簡潔な文体と抒情的感性が豊かな和歌によって書き写されていた。

 摂関政治が完成されつつあった時に、女流文学が開花し始めた。宮廷内の権力抗争が進むにつれてより教養を高める必要性があり、それに伴って宮廷お抱えの人々の教養が高まったことにより、開花につながったと考えられる。紫式部による『源氏物語』、『和泉式部日記』などがその代表作と言える。これらを参考に短編物語集である『堤中納言物語』などが登場している。歴史物語としては、私的な仮名で書かれた物語風な史書が台頭した。栄花物語や大鏡、今鏡、増鏡がその代表的作品である。女流文学の開花と共に、日記や随筆が発達した。仮名日記の登場は日本文学ののちの歴史に大きな影響を与えるようになった。仮名日記の最初には紀貫之の『土佐日記』、『紫式部日記』などがある。中でも、中宮定子に仕えた清少納言によって書かれた才覚に秀でた定子の作り出す華やかな宮廷文化の様子を賛美し、口頭言語に近い文体で記録された作品である『枕草子』は類聚章段・日記的章段・随想章段が雑然と配列されているという面白い特徴も存在している。日本や中国、インドの説話を集めた最大の説話集である『今昔物語集』は平安末期に生きるあらゆる階層の人々を取り上げ輪郭華やかに描かれている。

4.中世の文学

 中世の文学は、鎌倉幕府成立から江戸幕府成立までの時代であり、平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉に幕府を開いた建久3年から慶長8年まで400年は激動の時代でもある。武家や庶民が台頭するようになったこの時代は連歌や能楽といった新たな文学世界の始まり告げるこの時代は、様々な階層の人々の文化的相互交流が促進され相互影響を与えながら発展していったと考えられる。

 武家が大きく台頭したこの時代において、王朝文学を好む公家らの人々は源氏物語などの中古文学作品を規範とした王朝貴族社会への懐古的姿勢を強めていった。動乱の時代を表すために軍記物語も登場した。戦乱を描き信仰の武士の生き方や生き様を語りながら、無常観を基盤とする王朝的心情を主題とし、隠者文字は雅な世界と俗世を離れ出家遁世しようとする志向を調和させていきようとした平安貴族のプレゼンスを模範とするものであったとされる。また、平安朝の美意識を新たな観点からまとめ上げたのが幽玄であり、この幽玄は能楽や連歌にも大いなる影響を与え続けた。義経記や太平記、御伽草子が登場し、様々な文学が誕生したこの時代に古今和歌集の流れを汲んだ『新古今和歌集』が編纂された。体言止め・本歌取り・三句切れなどの修辞を多用し、有心体を重んじた幽玄な象徴的和歌を生み出した和歌集としてとらえられている。

 二人組で歌を詠みあう連歌は平安時代末期より流行しだしたもので、鎌倉時代を通じて式目という形に整備されたと考えられている。滑稽な連歌である無心連歌と和歌的な連歌である有心連歌などへ分別され、『菟玖波集』や『竹林抄』などが代表作として知られている。その後、俳諧連歌などが生まれていく。王朝文学を模倣した擬古文学が登場した。その後、軍記物語としては最大平家物語が登場する。『平家物語』では、平家の台頭から滅亡までの長き歴史を記した書物であり、中世の文学作品の代表作とも言える。平家の繁栄に至るまでの努力やそれらの結晶。平清盛が究めた栄華の数々。そして清盛亡き後の源氏によって滅ぼされていくまでの衰退という悲壮感に満ちた情景を余すことなく書いている。さらに、のちの兼好法師によって書かれた徒然草においてもこの平家物語にする記述があり、文学が相互に影響を与え合っていたということがうかがえる。また、この『徒然草』は日本三大随筆の一つとして数えられ、枕草子と鴨長明の方丈記に肩を並べる存在であるとされている。全二244段からなっており、和漢混在型の文体と和文中心型の部谷の2つに分別でき、自身の思索や雑感、逸話などをまとめたものになっている。健康は仁和寺に居住を構えたためにそれらに関する記述が多くなっているのも特徴である。

■参考文献

①秋山虔,三好行雄 共編著(2016)『原色 新日本文学史』文英堂

②大修館書店編集部 編(2015)『社会人のためのビジュアルカラー国語百科』大修館


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