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自然から頂戴しろ。

こんにちは。志昇です。

 今回は故郷利尻での「ひとり遊び」について、深く、ふかーく掘り下げていこうと思います。

 先に恒例のタイトル回収をしますが、今回は、私の魂であるドラマ『北の国から』の「’02遺言」に出てくる、黒板五郎の遺言の一節から借りました。タイトルの意味は最後に説明します。忘れてなければ。

 私にとって『北の国から』がどのくらい魂なのかと言うと、将来の夢の1つが『ドラマ「北の国から」私論』という論文集を出版すること、なくらい魂です。今思い付いた夢ですが、なかなか良い目標だと思っています。

 『北の国から』のことはいつかnoteでも書きたいと思っていますが、今回の主題ではありませんのでここまでにします。

 
 さて、ひとり遊びの話をする前に断っておくことがあります。それは、「友達がいないわけではない」ということです。初回の投稿で「いかに同級生に対してマウントを取るか考えていた」みたいなことを書きましたが、それはあくまで自分の失態をもみ消す時だけで、普段は仲良く遊んでいたのですよ。弁明になってますか?
なんといっても中学卒業当時で同級生は私を含め8人、仲悪くなりようがありません。

 友達はほとんどが学校に歩いて通える鬼脇市街に住んでおり、スクールバスで通学していたのは8人のうち私ともうひとりだけ。その女子も私とは別の集落に住んでいたので、家の近くに同級生はいませんでした。

 学校帰りに友達と遊ぶ時は、スクールバスの運転手さんに「今日乗らないです」と一言伝え、日が暮れたら市街の商店でパートをしていた母の車で帰宅します。小学生の時に一度、友達と遊びたすぎて一週間まるまる帰りのバスに乗らなかったことがあります。さすがに運転手さんが学校に報告したのでしょう、週明けに担任の先生から「もう二度とバス乗せねえぞ」と脅されました。それがトラウマとなり、友達と遊ぶ回数をうまくコントロールすることを学びます。

 とはいえ父母は仕事、兄2人は中学の部活で帰りが遅いため、学校帰りの家の周りには、海と山とじじとばばしかありません。それでも幼いなりに考えを巡らせれば、今のようにスマホやPC、ゲーム機がない環境でも、意外にひとりで楽しめる遊びがたくさんあるのですよ。私と同じ境遇の子どもたちのために、その極意を伝授しましょう。

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ひとり遊び① 〜穴掘り〜 難易度1

用意するもの:シャベル

 簡単ですね。家の前の土を、ただただ一心不乱に掘るのです。途中で幼虫なんかが出てきた時にはとてもテンションが上がります。「お前は将来何になるんだ?クワガタ?コガネムシ?」などと心の中で呼びかけてあげましょう。目的など必要ありません。必要なのは、「どこまで掘れるだろう?」「何かすごいものが埋まっているかも知れないぞ!」という強い気持ちです。30cmほど掘って大きな石に当たった時点でこの遊びは終了となります。穴(幼虫も)を埋めてシャベルを片付けましょう。

ひとり遊び② 〜刀づくり〜 難易度1.5

用意するもの:いい感じの石

 これも簡単です。まず平べったくて尖った、いい感じの石を見つけます。あとは包丁を研ぐ要領で別の大きな石にひたすら擦るだけです。この遊びは穴掘りに比べて根気がいるのが特徴です。すぐに諦めずに「頑張れば立派な刀ができる」と信じて続けましょう。
 学校の行事で数回、利尻山中腹のヤムナイ沢という場所に登りました。通称「万年雪」と呼ばれる、一年中雪が残っている珍しい場所で、現在でも絶景スポットとして利尻の観光ツアーで登る方がいます。6年生の時、この万年雪で刀作りにうってつけの石を見つけたので、担任の先生に、

「この石、どのくらい研いだら刀になる?」

と聞いたら、

「とりあえず2ヶ月ぐらい頑張ってみろ」

と、まるでなにかの修行のような、今考えればとてつもなく適当なアドバイスを受けました。その言葉を信じて石を家まで持って帰り、研ぎに研ぎました。2日で飽きました。心のどこかで、「無理に決まってんだろっ!」という気持ちがあったのかも知れません。作品の出来に納得がいかなかった陶芸家さながら、石を地面に叩きつけた記憶があります。日本の将来を担う子どもたちには、こんな私を反面教師にして、ものづくりの素晴らしさを体験してほしいものです。とりあえず2ヶ月、頑張りましょう。

ひとり遊び③ 〜山林散策〜 難易度2 危険度3

用意するもの:木の枝

 ご存知の通り、家の前は海、後ろは山、という地形なので、どこからでも山に入っていくことが出来ます。家のすぐ近くに山道があり、じじなどは毎年夏や秋に、タケノコやウドなどの山菜を採りに出かけ、私も何度かそれについて行ったことがあります。他にも行者にんにくやヨモギなど、海産物以外の食材も一応利尻では手に入るのです。ちなみに山菜採りは町の許可がいるそうですよ。
 一方ひとり遊びは勝手が大きく異なります。当然許可など不要で、丈夫な木の枝を片手に、山道を逸れた道なき道をひたすら開拓していきます。これも目的はなく、ただ「なにか発見があるかも知れない」という一心で突き進むのみです。蚊に刺されようがうるしにかぶれようが関係ありません。途中でグズベリーや桑の実を見つけたら食べてひと休みしましょう。やがて本能が、「帰り道分かんなくなるぞ」と警告します。その瞬間が帰宅の合図です。一度タケノコを採りに出かけた親戚のばばが山の中で迷って、別の山道から出てきた、という事件がありました。今でも笑い草です。

ひとり遊び④ 〜流木ながし〜 難易度2.5

用意するもの:流木、双眼鏡

 山関係が続いたので海にも目を向けましょう。用意するものが増えたため、少し難易度が上がります。簡単に説明すると、浜に打ち上がっている流木(もしくは発泡スチロール)を沖に流して、どこまで目で追えるかという、非常に忍耐力の問われる遊びです。私の家からは、海の向こうに北海道本土がうっすら確認できます。位置的にはおそらく天塩周辺でしょう。そこから漂流したであろう木片を元の場所に返すのです。沖合200m位までは肉眼で追えるのですが、その後は双眼鏡が必要となります。木片は当然波に漂いながらプカプカ流れていくので、覗き続けていると吐き気をもよおす程酔ってきます。さらに、凶器になりそうなくらいゴツい双眼鏡を持つ両手が震えてくるため、この遊びは1時間が限度です。実践する際は、波が穏やかなタイミングと、コンパクトで質の良い双眼鏡を選びましょう。

ひとり遊び⑥ 〜ペロ釣り〜 難易度3

用意するもの:糸、釣り針、石にひっついている貝

 その名の通り釣りなので、高い技術が求められます。糸は最悪、刺繍用の糸でも良いですが、出来れば普通の釣り糸を用意してください。竿は不要です。どうしても本格的な釣りを装いたければ、木の枝に糸をくくりつけても良いですが、糸を直接指でつまむだけでも十分釣れます。そしてエサとなるのが磯辺の石にひっついている貝。正式名称を知らないので調べたところ、マツバガイという貝の一種のようです。いたる所にいるのですぐに見つけられます。この貝の身を釣り針につけて、波打ち際の、石と石の小さな隙間に垂らすと、「ペロ」という10cmくらいのヌメッとした魚が釣れます。ペロも正式名称ではないと思うのですが、ばばがいつもこの魚を「ペロ!ペロ!」と呼ぶので、私の中でアイツはペロです。

ひとり遊び⑤〜焚き火〜 難易度4 危険度3

用意するもの:流木、チャッカマン、油、新聞紙、近所のとおさん

 さあ、難易度が一気にはね上がりました。間違っても家の前や山中では行わないようにしましょう。大人の人たちにぶん殴られる可能性があります。これはあくまで浜で行う安全な焚き火です。流木は沖に流すほど転がってますし、チャッカマンと新聞紙は家にあります。問題は油と近所のとおさん(固有名詞でも父親のことでもなく、知り合いのおじさん、くらいの意味です)なのですが、これはタイミングがなかなか合いません。浜に近所のとおさんがいれば、「火焚くから油ちょうだい」と言えるのですが、いない場合は、磯船の船外機に使う、ガソリンが入ったボトルを自力で見つけるところから始まります。そう、近所のとおさんの役目は、別に焚き火の見守りなどではなく、油の支給係というだけで、お察しの通りこれは遊びというより悪戯に近いです。
 近所に、同じスクールバスで通学する2学年上の女の子がいました。帰りのバスの中で、

「この後うちの浜で火焚くべ」

「分かった、したら15分後に志昇んちの浜に行くわ」

「おう」

という都会では考えられない会話をした記憶があります。これがいわゆる焚き火デートです。女の子を誘う際は慎重に、周りに燃えるものがない比較的波打ち際に近いスポットを選びましょう。


 今回紹介した以外にも、

・漁具の一つであるガラスの浮き球を水晶玉に見立てて、当時の人気漫画「地獄先生ぬ〜べ〜」を演じる、『ひとり除霊ごっこ』

や、

・四角くて真ん中に丸い穴が空いているタイプの消波ブロック(「スタピック ブロック」で検索すると出てきます)の上に立ち、穴の底めがけて、、、、、やめておきます

などなど、詳しく説明したいひとり遊びがあるのですが、自らの人間性を疑ってしまいそうなので泣く泣く割愛します。


 さて、冒頭のタイトル回収の話に戻ります。この一節は、

金なんか望むな。倖せだけを見ろ。ここには何もないが自然だけはある。

という前の文章から続きます。この遺言の文脈を私なりに読み解き、かつ抽象的に表現すると、

想像力(創造力)は、心の豊かさを育む。

となります。

 具体例になるか分かりませんが、私にはある「特殊能力」があります。もちろん私が勝手にそう思っているだけです。

 中学校卒業後、大学時代の数年を除き、約10年札幌を拠点に生活してきました。しかし一向に道が覚えられず、目的地にたどり着くまでいつも無駄な回り道をしてしまいます。そんな方向音痴の私ですが、初めて訪れたどんなに土地勘のない場所でも、公園がどこにあるかは何となく分かります。大きな公園ではなく、ブランコと、ベンチと、小さな東屋があるだけの小さな公園。その町の匂いとか、鳥のさえずりとか、風の音を感じていると、「あ、この辺にあるな」と想像が出来ます。

 公園は市内に山ほどあるので、「たまたまですよ」と言われればその通りなのですが、私はこの「能力」を大変気に入っています。そしてそれが、子どもの頃のひとり遊びによって会得されたものだと信じています。もう一度言いますが、私が勝手にそう思っているだけです。いつか私より何倍も賢い科学者が、根拠を提示してくれたら嬉しいです。

 目的地や公園の場所など、今はアプリですぐに検索できます。効率が求められる現代で、私ももれなくその利便性を享受しています。今こうして文章を書いている瞬間も。私自身は、基本的には便利なモノはどんどん使っていけば良いと考える派です。ただ一方で、モノがありふれた生活の少しの余白に、想像力だけが頼りの、なんの意味も目的も必要としない、小さくて素敵な発見があればいいと考えたりもします。利尻での暮らしが、頭の片隅にそんな思考を育んでくれました。

 五郎さんほど人生を達観するのは、まだ当分先のことになると思います。ひとまず今言えるのは、

自然から(も)頂戴しろ。

といったところでしょうかね。


それでは、また。

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