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日曜日の定説。

先日、母との電話でこんなやりとりがあった。

「俺ってさ、ちっちゃいとき母さんに読み聞かせしてもらったことないよね」
「バカかお前!しました!ももたろうでもなんでも、全部母さんがあんたがた(注:兄2人と私)に読んでやってたんだからね!ふざけんなよテメェこら!」

ほんの軽い気持ちで聞いたつもりだった。
いつものなんてことない会話の延長線で。
「お前」「あんた」「テメェ」。
3種類もの二人称を使ってエラい剣幕で怒鳴る母に対して、
「すみませんでした!」
と言い残し、慌てて電話を切ることしかできないのだった。

12月、私が勤める書店は最繁忙期の真っ只中にある。
ほとんどの書店がそうだろう。
本が売れるのはありがたいものの、肉体的には限界を迎えるという皮肉な季節の到来である。

児童書の担当になって12月を迎えるのは2回目だ。
この1年半ほどで、どの時期にどんな絵本が売れ、どんな準備をしておけばよいかをある程度学んできたつもりではある。
少しずつだが、お客さまからタイトルを言われれば、すぐに著者や出版社、棚の場所まで見当がつくようにもなってきた。

それでもいまだに担当者としての自信を持ちきれないのは、「小さいころに絵本を読んでこなかった」という意識が根底にあるからかもしれない。
実際には母が声を荒げるくらいには触れてきたらしいが、物心ついてから実家の本棚に絵本があった記憶がない。
目的もなく児童書売場を訪れるカップルが、
「うわ〜、見てコレなつかし〜!」
と盛り上がっているのを見ても、共感できるはずがないのだ。

そんな私にも、唯一記憶に残っている絵本がある。
ただでさえ古いのに、ページが破れボロボロになるまで読んだ本。
おそらく二度と、新刊書店では手に入らない本。
内容もおぼろげだ。

けれど、タイトルと日曜日の思い出だけは、今でもしっかりと覚えている。

我が家には、母が「定説」と呼ぶ、ある習慣があった。
毎週日曜日は、昼飯を長兄の同級生の実家が経営する食堂「三日月」で、そして夕飯を父の実家で食べることである。
母に言わせると、
「ご飯支度すんの面倒くさかったから」
だそうだが、こんなバカな話はない。
我が家のご飯支度はほとんどすべて母方の祖母がやっていたからだ。
祖母ひとの家事を自分の手柄にし、かつそれを「面倒くさい」とは一体どういう了見なのか。
親の顔が見てみたい。

夕方4時を過ぎると必ず電話が鳴った。
父方の祖母からである。
ご飯の準備ができたから早くおいで、という内容だ。
家から父の実家までは、車で10分もかからない。
いくらなんでも早すぎるからとゆっくりしていようものなら、きっちり5分後にまた電話が鳴る。
目覚ましのスヌーズ機能みたいな催促である。
こちらはまだ「三日月」のざる蕎麦が腹に残っているのだが、向こうはそんなことお構いなしである。
早く3人のめんこい孫たちに会いたいのだった。

利尻島随一の景勝地であるオタトマリ沼から200メートルほどの場所に、ポツンと父の実家がある。
車を降りて玄関を開けると、いつも祖父がソファから身を乗り出して大相撲中継を観ていた。
祖母はといえば、まるで数年ぶりの再会かのように目を細めて、週に一度会っているはずの私たちを歓迎してくれた。

色あせた絨毯の上に置かれた小さなテーブルには、いつも豪勢な夕飯が並んでいた。
おいなりさん、唐揚げ、ホッケのかまぼこ。
祖母の手料理は、ほとんど一杯の腹にも不思議とスイスイ入っていった。

ささやかな団らんの途中で、父と祖父が言い争いを始める。
大抵は相撲の決まり手が発端である。
「こいつ、こったら勝ち方したらだめだべよ!横綱だら四つに組んでしっかり勝たねえばだめだ」(祖父)
「しょうねえべよ!勝ち負けの世界なんだものや。まったく、頭固くて参ってまるじゃ」(父)
「なにこの!」(祖父)
「ねぇなんで毎回制限時間いっぱいまで見合ってんの?早く始めてさっさと終わればいいしょ」(長兄)
「もう大喜利始まっちゃうんだけど」(次兄)
「うるせえ黙って見てれじゃ!」(父)
「いい加減にすれ!子どもたちの前で」(祖母)
「・・・」(父・祖父)
我が家の結びの一番である。
決まり手は祖母の一喝だ。

この家にはこどもが楽しめるものが何もなかった。
なにせ普段は老夫婦のふたり暮らしである。
漫画もなければゲーム機もない。
テレビは力士しか映さない。かろうじて家の中にあるエンタメ要素を挙げるとすれば、祖父の愛用する碁盤くらいのものである。
どう遊べというのか。
譲らない父や、それに輪をかけて頑固者の祖父の怒声を聞きながら過ごすこの時間が、いつも退屈で仕方なかった。

いや、固定電話が置いてある小さな棚の中に、1冊だけ絵本があった。
なぜその1冊だけだったのか、最初に読んでくれたのは誰だったのか、もう忘れてしまった。
祖母か、もしかしたら母だったかも知れない。
見るからに古い真四角の表紙には、大きなたけのこと、それを見上げるおじいさんの絵。
ところどころページの片側が観音開きになっている。
夕飯を食べ終えてから大喜利の軽快なオープニング曲が始まるまで、いつもその絵本を読んだ。
私にとってはこの家で唯一と言っていいくらいの穏やかな時間だったのである。

ちびまる子ちゃんとサザエさんが終わり、そろそろ帰ろうという空気が充満すると、祖母と祖父は必ず、「今日は泊まってくんでなかったかい?」
と聞いた。
冗談じゃなかった。
早く帰って、漫画を読みゲームをしたかった。けれど生意気にも、本音を言って祖父母を傷つけたくないと思っていた。
「今日はいいや。今度ね」
玄関を出て車が走り出すまで、2人はいつも名残惜しそうに、私たちに手を振って見送った。

高校、大学へ進学すると、もちろんこの「定説」は途絶えた。
代わりに月一回ペースで、祖父母のどちらからか電話がかかってきた。
言われることはいつも同じだった。
「悪いことすればダメだよ」
「真面目にやってればいいことあるからね」
あまりに同じことばかり言うものだから、わざと電話に出ないことが何度もあった。

金沢に出て5年目の秋に、祖父が亡くなった。
通夜と葬式の日の夜、生まれて初めて祖父母の家に泊まった。
なぜ生きているうちにそうしなかったのか、そのときになってひどく後悔した。

ふと絵本のことを思い出した。
探してみたが、どこにも見当たらない。
読む人もいなくなり捨ててしまったのだろうか。
祖母に聞いてみた。
「志昇がね、あんまりあの本ば気に入ったもんだから、持って帰っちゃったんだよ。ボロボロになったから捨ててしまったんでないかい?」
全然覚えていなかった。
実家の方もひと通り探したが、どうしても見つからなかった。
私にとってあの絵本は、祖父母の家の象徴だった。
安らぎと、申し訳なさが入り交じる大切な思い出を、自らの手で葬ってしまった気がした。

それから思い出す度に、古本屋や図書館で在庫を探した。
ネットでも定期的に検索してみるが、やはり見つからない。
諦めたくなかった。
必ず手に入れて、いつかあの家に持っていき、仏壇にいる祖父母に見せたいと思った。
そうするべきだと思った。

『てんまでとどいたたけのこ』は、沖縄の民話をベースにした単純なおはなしである。
今、20数年ぶりにページをめくっている。

ある日のこと、しろひげじいさんは1匹のねずみがこどもたちにいじめてられているのを助ける。
お礼をしたいと言うのでついて行くと、広い畳の部屋には他にもたくさんのねずみがいて、お腹一杯のご馳走と踊りでもてなしてくれた。
帰り際、ねずみから、たけの種を手渡される。
「にわにまけば、きっといいことがありますよ」
家に帰って種をまくと、翌朝には自分の背たけほどもあるたけのこが生えていた。
たけのこは毎日ぐんぐん伸びていき、とうとう先っぽが雲の中に入って見えなくなってしまった。
ある日、たけのこの根元でちゃりんちゃりんと音がしたので穴をあけてみると、金色に光ったこばんがいっぱい出てきて、あっという間に山ができた。
たけのこが、天にあるおかねのくらを突きぬいたからである。

さて、それを見ていたとなりのあかひげじいさんは、自分もこばんがほしくてたまらない。
おいもの中に釣り針を仕込み、ねずみをおびき寄せることにした。
エサに釣られたねずみは、針が喉に引っかかり飛び跳ねる。
ねずみから無理やりたけの種を奪い、家に帰って庭にまいた。
「てんまでとどけ、てんまでとどけ。こばんよ、こばんよ、おちてこい」
たけのこはぐんぐん伸びていき、とうとう先っぽが雲の中に入って見えなくなってしまった。
ある日、たけのこの根元でじゃぶじゃぶと音がしたので穴をあけてみると、
どどどどど。
くさい水がいっぺんに出てきて、あかひげじいさんは溺れてしまった。
たけのこが、天にあるお便所を突きぬいたからである。

おしまい。

『てんまでとどいたたけのこ』
文/佐野語郎  絵/二股英五郎
(おはなしチャイルド第58号、チャイルド本社、昭和55年1月発行)を要約


全国900店の古書店が出店する「日本の古本屋」というインターネット古書店モールがある。
大学生のころ、定価だと手が出ない学術書や和本を安価で購入するためよく利用していた。
その中にあった「萩書房Ⅱ」(京都市)さんという古書店が、奇跡的に在庫していたのだった。
この場を借りて御礼申し上げたい。

「悪いことすればダメだよ」
「真面目にやってればいいことあるからね」
祖父母がいつも言っていたことを、また思い出している。
まるで絵本のような、単純な教訓である。

大切な人たちは死んだあとも、空の上から見守ってくれているという。
私は、祖父母の教訓どおりに生きられているのか、まったく自信がない。
できることなら、種をまいて、たけのこと一緒に雲の上まで昇っていき、確かめてみたい。
何があるだろうか。そんなことを思って、薄曇りの空を見上げてみる。
何にしても、くさい水に流されるのだけは勘弁である。

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