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寝てはいけない。

春に軽い頚椎ヘルニアと診断されてから、週に一度整形外科へリハビリに通っている。
他の患者は私の所見だと98%が肩や腰や膝が痛みを抱えるジジババの皆さまで、若干の場違い感は拭えない。
加えて、診断を受けたときに、「6ヶ月通ってもらって、もう一度MRI受けてみましょう」と言われた。

(ろ、ろっかげつ!?……どっかのタイミングで雲隠れするか…)

と一度は目論んだものの、罪悪感と、真面目で優しいリハビリ担当の先生に後ろ髪を、いや首を引っ張られてしまい、何とか通い続けることができている。

ここで受けるリハビリは2種類ある。
ひどく心もとない輪っかを首に装着して機械で引っ張る「牽引」を10分。
そして、担当の先生とマンツーマンで行う「運動療法」を40分だ。

運動療法は、医学書を担当していたころ、その名が付くタイトルの書籍をいやというほど見たから馴染みがあった。
「運動」と言うから、自分で少しずつ体を動かしていくのを想像していた。
実際はベッドに寝たままの状態で、首の周りを擦られたり押されたり引っ張られたりするだけだから、マッサージに近い。

症状や経過にもよるのだろうが、私が通う整形外科の場合は、どの患者も大体同じような治療を受けている。
自然、全員が無口になり、リハビリ室の中は静寂に包まれる。

寝たままの状態でリハビリを受けるため、必然的に睡魔との闘いを余儀なくされる。
小心者の私は、40分間幾度となく夢とうつつの境を行き来しながら、

(これはただのマッサージじゃなくて、医学的根拠に基づいたリハビリ…)
(一生懸命やってくださっている先生に失礼のないように…)

などと自分に言い聞かせて何とか正気を保っている。
たとえば先輩が運転する車で旅行に出かけたとき、助手席で寝ようもんなら確実に後でシバかれる。
あれと似た感覚である。多分。

だから、ある日となりでリハビリを受けているおじいさんが、自分の家かと思うくらい堂々と大いびきをかいているのを横目に見たとき、とても気まずかった。
たとえば授業中、先生が板書するチョークの音だけが響く中、クラスメイトがいびきをかきだしたら教室全体が変な空気になる。
あれと似た感覚である。おそらく。

担当の先生が、今に怒鳴りだすんじゃないか。
ソワソワして眠気どころの騒ぎではない。
だが先生は気にするでもなく、おじいさんへの指圧を続けている。
時折額にかいた大粒の汗を拭いながら黙々と。

たまらなかった。
今すぐおじいさんを起こして、「これは医学的根拠に基づいたリハビリなんだよ!ただただ気持ち良くなってんじゃないよ!」と叱ってやりたかった。
しかしながらリハビリ中に寝てはいけない決まりなどない。
私が怒ったらそれはそれで変人扱いされそうだし、知らないおじいさんを叱りつける勇気もない。
そもそも何がたまらないかと言えば、私自身が寝たい衝動を辛うじて抑えているのに、そのハードルの下をおじいさんがあっさりくぐり抜けたことなのである。

仰向けになってそんなことを考えながら、無機質な天井に設置された蛍光灯を見つめていると、前に同じような話を聞いたことがあったのを思い出す。

4年前、我が故郷に井上陽水さんがやって来た。
コンサートツアーだそうである。
やって来た、と言っても私は見に行っていない。
札幌で一緒に暮らしている母と行くつもりでチケットも2枚取ったのだが、ギリギリになって仕事の休みが取れず、結局母ひとりで行った。

会場は利尻町にある「どんと」という施設の大ホールだった。
キャパは500席くらいだろうか。
500席と聞けば随分こじんまりとしたイメージだが、島民の約8分の1が収容できる計算である。
それなりにでかい。

たかだか人口4000ちょっとの離島にはるばる音楽界の重鎮がやって来て、名曲の数々を披露してくださるというのである。
島はお祭り騒ぎだったらしい。

母は私の分のチケットを、井上陽水の「い」の字も知らない祖母に渡した。
「行かねぇじゃそったらもの!」

音楽界の重鎮を「そんなもの」呼ばわりする無知界の大御所。
よせばいいのに母は祖母を説得して連れ出した。

嫌な予感はした。
かつて祖母は、札幌の中心街にある蕎麦屋に作業用のモンペを着たまま入店した。
ひと口食べた直後、「しょっっぺぇのぉぉ!」と店内に響き渡る声量で叫んだ伝説は、家族代々に渡って語り継がれているほどである。
都会の人やモノとは決して引き合わせてはならない存在なのだ。

一方で期待もあった。
祖母は元来歌を聴くのが大好きな人である。
年末年始など帰省した私に一切チャンネル権が渡ってこないほど、一日中BSの演歌番組を観ている。
なんだかんだ言って楽しむかもしれない。
なんならコンサートが終わる頃にはファンになっているかも知れない。
果たしてどちらに転ぶのか、母からの報告を待った。

開演してものの数分で、祖母はホールに響き渡るほどの大いびきをかいて寝たらしい。
300キロ離れた場所で祈る孫の願いは、まったくと言っていいほど届かなかった。

半分予想していたことではある。
こちらとしては、本当に「夢の中へ」行ってらぁ、と笑って済ませられる。
だが現場にいた母はひどく気まずい思いをしたに違いない。

百歩譲って歌っている最中ならまだいい。
いや全然よくはないのだが、いびきの音を演奏がかき消してくれるからだ。

問題はMC中である。
曲が終わり静まり返るホールで、あの独特の色気がある声に混じり、グゴーグゴーと色気もくそもない音が聞こえてきたら。
そしてそれが間違いなく隣りにいる肉親から聞こえてくる音だったら。
考えるだけで背筋が冷たくなってくる。
「吹雪 吹雪 氷の世界」だね、では済まないのである。

ちなみに、都会の蕎麦屋でも大スターのコンサートでも変わらず肝の座り方が常人離れしている祖母は、今の所リハビリに通う必要もなく、健康そのものである。

中学を卒業して札幌に出て以降は、年に2回ほど帰省している。
実家に着いたら、まずは祖母が用意してくれたご飯を食べる。
これは夏も冬も変わらない。
ご飯を食べた後、やることがなくなる。
これも夏冬関わりなく、やることがない。

仕方がないので、こどものころにたんまり買い揃えたコミックを物色し、居間のソファで読み耽る。
このソファが私の身長より少し長いくらいで硬さもちょうどよく、とても寝心地がいい。

家事が一段落した祖母が、台所のイスに座ってお菓子をほおばりながら私に話しかけてくる。

「仕事はどんだ?」
「こないだ病院さ薬もらいに行ったら〇〇に会った。太ってまって誰だかわがらねがったじゃ」

そんな他愛もない話を延々と続ける。
最初のうちは適当に相槌を打つのだが、次第にそれも面倒になり、右から左に流すようになる。
冷たい孫だと思われるかもしれない。
だか祖母はこうでもしないと永久に喋り続ける。

何度かこんなことがあった。
祖母のマシンガントークを受け流しているうち、その声と訛りが子守唄のように聞こえだし、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めて時計に目をやると、20分ほど経っている。
台所へ視線を移した。

「あしたおでらさいってはなばとりかえねばねぇ、ずんぶいってねえもの」
(注:明日お寺に行ってじいさんの仏壇に上がっているお花を取り替えないといけない。しばらく行ってないから)

まだ喋っている。
ひとりで。

最初は独り言かと思った。
けれどよく聞いていると言葉の端々で、

「ほんだべ?」(注:そうだろう?)
「ほんだべさ」(そうだろうよ)
「んだほんだ」(そうだそうだ)

見えない誰かと会話している。
いや、私の相槌を自分の頭の中でこしらえて、私と会話しているのだ。
何という特殊能力。

かれこれ30年以上孫として生きているが、いまだに驚かされることが多く、退屈はしない。

高校に入学してすぐのころは、服装が田舎臭いだとか、世間知らずだとか散々からかわれた。
つけられたあだ名は「リシリ」だった。
別にそう呼ばれるのがいやな訳ではなかったが、意識的に着るものを選ぶようになったし、島の訛りが出ることも少なくなっていった。
友人たちも徐々に、私のことを名前で呼ぶようになった。
小さいころに見ていた祖母と同じように振る舞うのは、恥ずかしいことなのだと思うようになった。

家の中ではほとんど喋らない私に比べ、祖母はその独特のキャラクターからいつも家族団らんの中心にいる。
毎日のように近所の人たちが家に集まる。
島に連れて行った高校や大学の友人、職場の同僚たちもことごとく祖母のファンになる。
どうやら、祖母には癒やしの効果もあるらしい。

まごうことなく同じ血が流れているのに、歳を重ねるに連れ、その繋がりを具体的に感じることができなくなっている。
祖母が大好きなのに、悔しい。大好きだから、切ない。
これだ!という共通点がほしい。

金沢で研究者を夢見ていた10年ほど前、京都の大学で行われる講演会に参加した。
登壇されるのは、当時九州大学の名誉教授を務めておられた先生で、勲章も授与されている日本近世文学の大家だった。
学部生の頃から貪るように論文を読んだ研究者の高説を直に賜る機会である。
ホールに設置された多くのパイプイスの中から、迷わず最前列を選んだ。
しばらくすると、盛大な拍手とともに先生が壇上へと姿を現し、ゆっくりと話し始めた。
当時すでにかなりお歳を召されていたはずだったが、話しぶりは実に朗々としていて若々しい。
私は一言一句を聞き漏らさぬよう集中した。

開始からまもなく、睡魔が襲った。
意識が遠のいてはハッと我に返るを繰り返しているうちに、今どの部分の何を話されているのか、なんなら今自分がどこで何をしているのかすら分からなくなった。

大先生と何度も目が合った気がした。
最前列で首を不自然に上下させている若者を訝しんだに違いなかった。
熱心な学生をアピールしたかった。
こんな形で、見つめ合いたくはなかった。

祖母から受け継いだ血。
それによって育まれたのは、寝てはいけない場所で寝てしまうという、あまりにもしょうもない共通点である。
しかしながら、冷や汗をかき己を恥じている時点で、私は祖母に完敗している。
大スターの前で寝てしまってもまったく動じない彼女には、到底及ばないのだった。

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