月と地球


幼稚園の頃だったか。
幼馴染の男の子が、昼間の青空に見える月を見て、「知ってる? あれ地球なんだよ。地球が見える」といった。
私もまだ幼子だったが、今自分が立っているこの地がまさに地球であると知っていた。そしてあれが昼に見える月だということも。
だから、「違うよ、月だよ」と反論したが、「だって幼稚園の先生がいってたもん」と譲らない。「昼間に月はみえないんだよ」とも。私は、暗くなると見える月や星は、昼間にはなくなるわけじゃなくて、ただ見えないだけだと、母から教えてもらって知っていたので、それは間違っていると思った。


それにしても、大人というのは、なんでも知っていて、いつも正しいことをいうと思っていたのに、例外もあるようだ。いくら大人の言うことでも、今自分のいる地球という星が、地球から見上げた空に見えるわけがない、と私はまったく納得できなかったし、先生の言っていることは間違いだと思った。大人のいうことでも、また博識そうなこの幼馴染の言うことでも、間違いはあるんだなあと思った。


またある日、その男の子と遊んでいると、こういった。
「うごいてるものは、なんでも生きているんだよ」
私は、これにはうまく反論できなかったので、「へえ」といった。あたりを見回してみる。鳥の鳴き声がする。動いているところは見えないが、鳥は間違いなく生きているだろう。花壇をみると、アリやダンゴムシが歩いている。なるほど、虫も生き物だ。
風が吹いた。すると、男の子はいった。
「ほら、木が揺れてる。あれも生きてるよ」
確かに、歩いたりするわけではないが、植物も生き物なのだと母から聞いた。私は納得して頷く。けれど、次の行動は、子どもながらに腑に落ちなかった。
男の子は、水たまりにむかって、ぺっ、と唾を吐いた。汚いな、とわたしは思った。
泡立ったそれが、風に吹かれてゆらぐ。


「これも、動くから生きてるよ」「そっか……?」「あと、あっちの旗も、動いてるから生きてる! 雲も!」「動いてるもん……ね?」


疑問に思いつつも、それがどうしておかしいのか、うまく説明ができなかったので、反論しなかった。
私は子供のころから無駄にプライドが高かったので、そんなことも知らないの、と言われることが非常に屈辱だったので、さも当たり前に知っているかのように、頷いた。あのあわあわした、到底生き物に思えないあれも、生き物なのか……と、半ば無理やりに自分を納得させた。確かに、目には見えない微生物というものがこの世にはいるらしい。だからあれも生きているからうごくのだろう。多分。旗や雲も、生きていたのかあ。そっかあ……。
もし、私がこのときに山芋の鉄板焼きを思い浮かべ、その上に乗せたかつおぶしがゆらゆらと踊るさまを思い出していたら、きっと「動くものはすべて生きている」「生きているから動く」という論が成り立たないことをこの幼馴染に説明できたかもしれない。かつおぶしは、美味しいけれども、生きているから動いているわけではないもの。単純に動くものは生きているとは言えないだろう。

子どものころには、そういったいとおしい勘違いを誰しもしていたと思う。
幼いころ、ラジカセには小さな人が中で歌ってると思ってた。いつもそんなところに閉じ込められてて可哀そうだな、と同情していたし、スーパーの店員さんはお店に住んでいると思っていたから、夜にはレジやサッカー台で寝てるのかな? 寝にくそうと思っていた。家具屋さんにはふかふかのお布団があるから、そこの店員さんになればいいのに、なんて本気で思っていたし。
それから、アメリカやフランスといった外国は、宇宙の他の星にあるんだと思っていた。世界規模がでかい。

子どものころの記憶は、普段はあまり意識しない。けれど、ふとした瞬間にまざまざと思い浮かべ、懐かしくて、戻れない過去に胸を痛める。

毎日、何して遊んでいたんだろう。住んでいたアパートの駐車場や、公園で飽きもせず駆け回っていた。
自転車で坂を爆走したり(危ない)、はだしで走ってみたり。田んぼでおたまじゃくしを掬ったり。今考えれば少し気持ち悪いと思いそうなものだが、田んぼに水が張られた季節だけの特別な遊びだった。(泥団子を作って投げて遊んでいたら、田んぼのお隣の家の真っ白な壁に当たってしまって怒られてしまったこともある。申し訳ないことをした。)
悪ガキ軍団と敵対して、にらみ合ったこともある。が、とくに殴り合いのけんかなんかにはなった記憶はない。
低学年のころは、そうやって家の近所に住む男の子たちに交じって遊んでいた。
最も定番になっていた遊び場の公園に、木々がたくさん生えたちいさな山みたいなところがあった。斜面に落ち葉が積もり、人目に付きにくいその場所を分け入ると、横穴じみた穴がぽっかりあいていて、私たちはそこを秘密基地と呼んでいた。そこで遊んでいた時、不良の代表格みたいな兄弟と取り巻きの悪ガキが乗り込んできた。学校では怖いと思っているのに、そのときは私たちの場所をうばおうとするなんてなんてやつだと、攻撃的な気持ちになったことを覚えている。実際に喧嘩はしなかったので、たぶんすごすごと遊び場を変えたのだと思う。やはり不良は怖いので。それに、私含めて一緒にいた子たちはみんな喧嘩なんてしたこともなかったから。

秘密基地のあった斜面のすぐ両脇には、フェンスがあるものの、深くて恐ろし気な池があった。実際に人が沈んだとも聞く。よく考えれば子どもたちが遊ぶ公園にそんな池がふたつもあり、山じみた鬱蒼した場所があり、さらにはマムシ注意なんて看板が常設されていた。なかなか治安の悪い公園だったなあと今更思う。当時はそれが当たり前だったので、何も思うところはなかったが。猫か何か、白骨化した小動物の死体を見つけたこともあったし、子どもたちには刺激的なエロ本が捨てられていたこともあった。BB弾もいたるところに落ちていたし、そういえば爆竹の音も頻繁に聞こえていた。山のふもとだったので、時折いのししやさるの目撃情報があって、小中学校では集団下校をしたり、なぜか露出狂などの不審者もよく出没して警戒されたりしていた。私は、幸いにもどちらとも遭遇したことはなかった。

ところで、不良の兄弟は、私が5、6年の時に引っ越してきた。平和な校区だったのに、一気に荒れた。と思う。同級生だった不良の子は、金髪に染めて、ピアスをして、大人の男向けのサイズの合わない大きな服をいつも来ていた。一つ年下の弟も同じようないでたちだった。彼らが、具体的にどんな悪さをしていたのかは知らない。が、のちに彼らの進学した地元の中学校は荒れ果てすぎて、学級崩壊していてそうだ。いじめは日常茶飯事で、授業はうるさすぎて成立しない。机が窓から放り出され、廊下にはバイクが走る。どんな世紀末だ。(私は、幸か不幸か家族の都合で小学校卒業と同時に他の地域に引っ越していたので、これらはすべて後述する友人からの伝聞である。)

小学校六年生のとき、とある発表会の練習で、ステージに立った。その不良の子が隣だった。名前順に並んでいたのだが、わたしと彼は苗字の文字が同じだったのだ。嫌だなあと思って、あまり彼の方を見ないようにしていた。向こうも、別に私に興味はないようだった。逆隣りに、きっと将来は大物になるとみんなが噂する、可愛くて優しくて運動神経も頭もよく、誰からも好かれる女の子が立っていた。彼女が、不良に話しかけた。「(不良の下の名前)、そのピアスかっこいいね」と。私は耳を疑った。え、下の名前で呼んでるの? そして、ピアスは学校で禁止されているから、触れてはいけないと思っていたのに、それを褒めたことも驚いた。さらに驚いたのは、不良の反応。照れたような、無邪気な笑顔で「これ、おとうさんに買ってもらったんだ」って、嬉しそうに言った。年相応の、無邪気な子どもの笑顔だった。「いいね、似合ってるよ」と、女の子も無邪気に返していて、私は彼らをみながら、なんだか、敵わないなあとため息をついた。そして、少しだけ恥ずかしくなった。ちゃんと接すれば、不良の子だって心を開いてくれるんだ。見た目がこわい子にも怯えずに平気で話せるこの女の子は、なんて素敵で格好良いんだろう、って。あこがれた。私にはできないなって。
その女の子は、私のことも「ゆかりさん」と呼んでいた。みんなを下の名前で呼んでいたのかもしれない。


そういえば、高校生のときにも、ほぼ初めての会話で、まだあまり仲良くない同級生に、「ゆかりちゃん」って呼ばれて、面食らったことがあった。けれども決して嫌な気分にはならなかったし、むしろ嬉しかったのを覚えている。
下の名前で呼んでもいい人はそう呼べばいいし、そうでなくても人の名前は積極的に呼んでいきたいと常々思っている。やはり、自分の名前を呼んでもらえると嬉しいと感じるし、呼んでくれる人には親近感や好感を抱きやすいと思うからだ。少し、気恥ずかしい気もして、だけど単純で簡単そうに思えて、なかなかむずかしいことで、私はまだあまりできていないけど。


高学年になって、六年生くらいのころには、仲良しのクラスの女の子の家に行ったり、一緒にDSでゲームをしたり、その子の家の近くの公園で遊んだりした。幼馴染の男の子たちとは、なんとなく遊びも話題も合わなくなって、疎遠気味になっていた。とはいえ、たまに、いつもの公園で会った時には、ブランコなど漕ぎながら会話をすると普通に楽しい。

今でも交流があり、彼氏と別れたことを一番に伝えて慰めてもらったり、LINEでお互いが大好きなプイプイモルカ―の話などする女の子の友達と、高台にある公園で遊んでいたとき。
私たちは小学校六年生で、夏か秋のことだったと思う。
「ぼくたち、10年経ってもおばあちゃんになっても、ここに座って一緒にのんびり話をしたいね」
友達がしみじみとそう言った。このことを、彼女はもう覚えていないだろうが、私にはとても印象的だった。
というのも、私は来年の夏に引っ越しをすることが決まっていたのだ。
私はそれを知っていたから、「うん、そうだね」なんて答えながら、それは叶わぬ願いになるだろうと半ば確信し、悲しい気持ちになったものだ。そして、そうやって共にいることを疑わず願ってくれる隣に座る友をかけがえのない大切な存在だと再認識した。
実際、市内から市内の引っ越しなので会えないことはなかったが、小中学生にとっては他の学校、しかも区が違うともなれば、毎日会っていたのに、今後は会えても年に数回になってしまうので、悲しむには十分すぎる距離だった。共に学校生活を送れないというのも、非常に悲しかった。
そんな貴重な存在である彼女と、今でも交流があることや趣味が似ていること、互いに遠慮せずに付き合えることがあまりにもありがたい。
人との関係なんて、少しのきっかけで簡単に崩れて離れてしまうもろくはかないものなのだから、離さないように大切にしたい。

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