水の話

 あの頃の僕は会社に戻るのが嫌だった。
 休日も約束されていたが、楽しいのは休日の前夜だけで、休日の朝になるとその瞬間からカウントダウンが始まっていた。秒針が一つ進む度に死刑に向けて動いているみたいだった。
 身体は元気だったが、心が先に悲鳴をあげた。
 ある日、車で出かけた。近くのコンビニで籠いっぱいに酒を買い込んだ。三ヶ月ほど前から顔見知りになった女性店員は「どこかで飲み会ですか?」と訊いてきた。
「まあそんなところです」
 そう答えて支払いを済ませる。
「気をつけて」
 彼女の言葉に「ありがとう」と返す。彼女と自分の年齢は近いのだろうな、と思った。どこの誰だか知らないし、ここでの顔しか知らないが、いい人だと思っていた。こんな状況でなければ声をかけていたかもしれない。
 だが今の自分にそんな余裕はない。
 酒の入った袋を助手席に置く。それから走り出した。
 空は雲一つない青空が広がっている。それからふと思った。今日死ねたら地上はどんな風に見えるのだろうか、と。
 
 峠道を走って待避所に車を入れた。リュックの中に酒を入れる。
 そこから木造の階段を上がっていく。大分古びているが、作りは頑丈だった。
 二百段ほどの階段を登り終えると古びた神社についた。
 
 高校時代、友達がここで死んだ。
 登山が好きな奴でいつも明るい笑顔を絶やさなかった。
 だからなのか、彼の異変には誰も気づかなかった。死ぬ数日前、彼はこう言っていた。
「ピンチになったら、いつでも来いよ」と。
 そのお前が先に死んでどうすんだよ。
 
 神社の境内の前に座り、ビールのプルタブを開けた。
 ぐいっとそれを流し込むと口の中に苦味が広がった。二十歳になったばかりの頃はまずくて仕方なかったのに、いつの間にかこれなしでは生きていけない身体になっていた。
 それにしてもいい天気だ。森の中から吹き渡る風も気持ちいい。
 ポケットの中から薬を取り出す。今日のために溜め込んでおいた睡眠薬と精神安定剤だ。合わせてオーバードースすれば絶対に無事では済まない。
 だがその為には身体の中にもっとアルコールを溜め込む必要がある。ビールの缶をぐいっと一気飲みして空にすると別の缶に手を伸ばした。
「もし」
 そこで声をかけられた。
 突然の声に驚いた。
 だが、それ以上に驚いたのはそこにいた人物に、だった。
 女がいた。
 若い、美しい。まるで絵の中から出て来たかのようだった。
 髪はさらりと長くて黒い。腰まで届きそうだった。着ているのは白装束だった。着物の下にはきっと、美しい白い肌が隠されているのだろう。
 女は続ける。
「どちらからいらっしゃいました?」
「あ……そこの、階段から」
 彼女は階段の方を見た。
 へえ、と不思議そうな顔をした。
「あの、ここの神社の方、ですか?」
「いえ、神社の方、というか」
 彼女は困ったような微笑を浮かべた。
「ちょっと違うんですけど、まあ、そんなところです」
 ああ、と僕はうなずいた。
 女の目が、僕の持ってきた酒類に向けられた。
「すみません、ダメですよね」
 帰ります、と立ち上がろうとした。
「お酒、ですか?」
 見ると女は物欲しそうな顔をして缶を見ている。
「あ、はい」
「あの……よければ……その……」
 もじもじとしている。
「一つ、頂ければ……」

 女の飲みっぷりには目を見張るものがあった。
 缶を開けてビールを渡すとすぐに空にした。口を拭う。
 僕の目線に気づくとはっと頬を赤らめた。
「す、すみません」
「いや、いいですよ。どうぞもう一つ」
 僕はビールを開けて渡した。
 彼女はそれを受け取るとまた飲み干した。十秒とかからなかった。先ほどよりペースが速くなっている。
「……どうぞ、これ、全部あげますよ」
「えっ!」女は目を丸くした。「いいんですか!」
 僕はうなずく。
 二十本ほど空けたところで女は訊いてきた。
「しかし、こんなへんぴな場所によく来ましたね」
 女はカップ酒を飲んでいた。ペースは全く衰えていない。
「昔、友人が死んだ場所なんです」
 一瞬、女の嚥下が止まったように見えた。それからすぐ再開し、飲み終えてから、へえ、と言った。
「友人を弔いに来られたのですか?」
「いえ、死のうと思って」
「どのような事情で?」
 訊かれて僕はポツリ、ポツリと話し始めた。

 ******

 勤めていた会社が倒産した。あの頃僕は音楽業界の末端にいた。気分屋の社長が「バンドは売れないからアイドルに手を出そうと思う」、そう言った時から嫌な予感はしていた。
 会社が倒産するまでの日々は断片的にしか覚えていない。はっきりわかっているのはある日、会社に行くと金目の物がなくなっていた事だった。
 社長は僕ら社員を残して飛んだ。あとは好きにしろ、とだけ言って。
 結局僕には田舎に帰る以外の選択肢はなかった。
 田舎でついた仕事はある法人の運営する介護施設での職員、つまり介護士だった。だが、ここで僕は先輩に目をつけられた。
 何かと文句をつけられた。態度が悪い、笑顔が嘘くさい、あれが、これが。
 ある時研修が行われた。その時の担当が彼だった。
 車椅子からベッドへの移乗や様々な介護技術を教わったが、僕だけが最後まで残された。研修が終わると、僕は先輩と二人で会場に残されて技術を習う事になった。お前の出来が悪いから仕方なくやってやる。彼はそう言って携帯をサブスクに繋いだ。俺からの応援歌だ、受け取れ、と。
 そこから古いロックが流れ出した。
 僕が言ってやる、でっかい声で言ってやる、ガンバレって言ってやる、聞こえるかい、ガンバレ。
 何十回もリピートされ、僕はこのバンドの曲が嫌いになった。
 こういった事が三ヶ月近く続いた。
 僕の何が気に入らないのか全くわからなかった。だがある日、知った。
 あの子、東京から来た人に彼女盗られて。それ以来、都会から来た人は目の敵にしてるの。
 職場にいるのは悪い人だけではなかった。親身になって話を聞いてくれる人もいた。
 その先輩は僕が酷い目にあった日は必ずラーメン屋に連れて行ってくれて、奢ってくれた。
 そんなある日、自分が出勤するとクスクス笑う声が聞こえてきた。僕が挨拶すると示し合わせたように笑いが止んだ。
 あとで知ったが、パワハラをする先輩と親切な先輩は繋がっていて、ラーメン屋で泣き言を吐き出す僕の動画を撮影しては社員のグループラインに流し、共有していたのだ。
 それを知った瞬間、心がへし折れた。

 ******

「なるほど」
 と女が言った。
「まあ、そんなところです。すみません、酒がまずくなりますよね」
 僕の言葉に女は無言で酒を飲んでいる。
 風が吹いた。
 僕の意識はそこでふっと、遠のいた。

 気づくと知らない天井があった。
 身体には布団がかけられてあった。
 別の部屋からは何やら会話が聞こえてくる。
 何と言っているのかわからない。どこの国の言葉とも違う言葉だった。
 声のする方向に目を向ける。ふすまを挟んだ向こうで何人かが何かを話し合っているようだった。
 そこで妙な事に気がついた。蛍光灯など、光を発する物が一つもないのに部屋の中は明るい。
 これは一体……。
 そう思った時、ふすまが開いた。
 それが部屋に入ってきた。
 件の女以外は、全員が老いていた。顔には皺が走り、歯も抜け落ちている。
 それが僕の布団を剥ぎ取り、身体を重ねてきた。
 唇を吸われ、舌を絡められた。服はあっと言う間に脱がせられた。
 嫌だと思っているのと裏腹に股間は屹立し、老女が着物をはだけてそれに跨がった。
「あなたの事を説明したら皆がひどく気に入りまして」
 耳元であの女が囁いている。
「少しの辛抱ですから。ね?」
 そう言って優しく微笑む。
 身体の内側から、何かが吸い取られるのを感じる。
 それは壮絶なまでの快楽と苦痛を伴っていた。搾り取られる瞬間、思わず悲鳴を上げてしまうほどだった。
 
 どれぐらいの時間が経ったのか。
 日か、週か、月か。
 よくわからない。
 気づくと僕はエンジン音を耳にしていた。
「聞こえますか、大丈夫ですか、聞こえますか?」
 ペチペチと頬を叩かれる。
 目を開けるとそこは救急車の中だった。
「ここは……」
 そこまで言って、僕は自分の声が老人のようにしゃがれている事に気づいた。
「登山者から通報であなたが倒れていると。自分の名前と生年月日言えますか?」
 僕は訊かれた事をそのまま答えた。

 運び込まれた病院で検査を受ける。
「何したらこうなるんですか」
 担当医師はそう言った。極度の栄養失調と過労で放っておいたら死ぬところだという。
 僕は自分が見たことは黙っていた。
 代わりに今日が何日か訊いた。医師の言葉に僕は呆然とした。あれからたった三時間が過ぎたのみだった。
 
 その日は病院のベッドで過ごした。
 夢の中で僕は、あの出来事を思い出していた。
 老女たちは代わる代わる自分を抱いた。
 抱く度に彼女たちは若返り、生気を取り戻していた。しまいの方になると僕は彼女たちの身体を貪っていた。それを可笑しげに最初に会った女が見ている。
 ――このまま死んでもいい。
 本気でそう思えた。
 女たちもそのつもりだったのだろう。幾人もの女が僕の身体に手を、舌を這わせている。
 最初に会った女の足元には僕の財布と、鍵、それから周辺にはどこから買ってきたのか酒の空き缶や空き瓶が数え切れないほど転がっていた。
 僕に跨がっていた女が精を受け止めた。身体を震わせて恍惚とした表情を浮かべた。それから別の女に急かされ、退いた。
 誰かの手が床に転がった僕の携帯に触れた。ロック画面が表示される。
 酒を飲んでいた女がそれを見た。
 そして目を丸くした。それから女たちに呼びかけた。その途端、女たちが動きを止めて彼女の方を見た。
 それから彼女は僕の住む世界の言葉でこう訊いてきた。
「この人があなたの友達ですか?」
 もうろうとする意識の中で僕はうなずいた。
 酒をぐいっと飲んだ女がつぶやく。いけにえとの約束は守らなくてはならない。
 
 翌日、会社に連絡してしばらく入院する事になった。最初は疑いの目を向けられたが現場の上長に自撮りした顔写真と診断書を送ると信じてくれた。
 
 その日の深夜、雷が響いた。
 ものすごい音だった。眠りの世界に片脚を入れていた僕は現実に引き戻された。窓から外を見た。
 真っ黒な空の中で雷が龍のように泳いでいた。
 空が白く光り、雷が鳴った。その時、空の中から何かが自分を見ている気がした。
 目をこらす。
 それは白い龍の姿をしていた。黒い雲の中を泳いでいる。
 雲の中から顔を出し、僕の方を見た。
 次の瞬間、驚くべき事が起きた。龍がにやりと笑ったのだ。
 それからすぐ黒い雲の中に隠れる。
 数秒の時をおいて何発かの雷が、町に落ちるのが見えた。
 そして雨が降り始めた。

 記録的豪雨だった。
 川はあっという間に氾濫し、あちこちの町に避難命令が出された。その中で雷が吠えながら町に落ちていた。
 それが、二日間続いた。
 避難所で一夜を過ごしたある人はこう語った。雷とは、神が鳴く、つまり神鳴りなのだ。我々はそれを思い知った、と。
 
 二日後、携帯が鳴った。
 法人本部からで、相手は僕の具合などを一通り訊くとこう言った。
「あなたの勤めていた施設が浸水し、大勢の死者が出た」
 
 話はこうだった。
 川沿いにあった施設には三十分もしない間に水が押し寄せた。
 その日の夜は書類の整備で大勢の職員が残っていた。彼らは防災ラジオからの情報を受けて避難訓練通りの行動を開始した。
 だが水の流れはそれよりも速かった。
 避難誘導など到底間に合わなかった。
 動ける利用者たちを屋上に誘導したが、そこに雷が直撃した。後日、無惨な姿の死体が回収された。
 残りの人々は川に流された。
 報道は「介護施設を襲った悲劇」と大々的に喧伝していた。ネットに動画や記事があげられ、あちこちに拡散した。法人のトップが頭を下げ、フラッシュがたかれる。川沿いに施設を作る時点でこうなる事は予期できなかったのか、という声もあがった。それに答える声は弱々しく、説得力に欠けていた。

 数ヶ月が経ち、僕はコンビニの中に入った。
「いらっしゃ……あ、お客さん!」
 いつもの女性店員が大声を出した。
「無事でした? 全然来ないから心配してたんですよ」
 僕は適当に茶を濁した。
「も~、心配かけさせないで下さいね」
 僕は謝り、ジュースとパンを買った。袋を受け取り、車に戻る。袋からジュースを取り出す。そのボトルに紙がくっついていた。そこには十一桁の番号と、彼女の名前が書かれていた。
 
 この出来事以降、彼女と連絡を取るようになって二人で遊ぶようになった。僕は彼女の脇腹に小さなほくろがあるのを見たし、彼女は僕が耳をくすぐられると何もできなくなる事を知った。彼女の寝相の悪さも知ったし、彼女は僕の風呂の長さを知った。
 幸いにも就職先はすぐに決まった。事務員の仕事だった。

 あの水害で一人だけ生き残った人物がいた。例の先輩である。
 彼は施設から十キロ離れた河原に横たわっていた。不思議な事に服は全く濡れていなかった。ずっと前からそこに放置されていたように。
 近所の住民が発見した時、彼は無表情で目を見開き、数分に一度、身体を震わせていた。
 彼は病院に搬送され、入院措置が取られた。何人もの医師が彼を診たが全員、何が起きたのかさっぱりわからない、と匙を投げた。
 僕は今、彼の前に立っている。
 傍らには彼の母親がいた。病院に搬送されて以降、毎日見舞いに来ている、という。
 パワハラを受けた事は黙っておいた。
「不思議なんです」と母親は切り出した。「日に日に痩せていって。まるで何かに精力を吸い取られてるみたいで。お医者さんも原因がわからない、と言っていて……目も開いたままで……」
「きっと、今に目を覚ましますよ」
 僕は母親に微笑みかける。
 携帯を取り出し、サブスクを開いた。イヤホンを繋いで先輩の耳に入れる。再生を押す。イヤホンから古いロックバンドの曲が漏れるのが聞こえた。先輩の目から涙が流れ出した。人間はどんな状況でも最後まで聴力だけは残る。研修で先輩が教えてくれた事だった。
「先輩、頑張ってくださいね」
 僕はそう言って微笑みかける。
 彼は何も答えない。代わりに身体をビクビクと震わせ、それから涙を流した。
 
 二時間ほどしてから、病室を後にした。
 車に乗り込み、空を見上げる。
「ピンチになったら、いつでも来いよ」
 あの時、彼はすでに何か知っていたのかもしれない。あるいは死ぬ前に、何か見たのかもしれない。
 晴れ渡る青空のどこかで、彼が笑っている気がした。

 二ヶ月ほどして仕事が落ち着いた。休日に車であの山に行った。山ほどの酒を持って。だが、あの時の階段はおろか神社も見つける事は出来なかった。
 車に戻ると酒は全てなくなっていた。まるで最初からそこには何もなかったかのように。
 僕は肩をすくめて山をあとにした。

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