犬の話
うちで飼っていた犬が死んだ。
ラブラドールレトリーバーで年齢は十五歳、名前はクレアという。
動物病院の医師の診断によると、老衰、との事だった。数日前から食事を食べなくなってその内に水も飲まなくなった。それから一週間後、クレアは眠るように虹の橋を渡っていった。
私は彼女の遺体を前にして悲嘆に暮れた。
思えばいつだって一緒だった。
遺体の火葬は、火葬場で翌日に済ませた。
彼女がいなくなった家の中は静かで、妙に広かった。
「クレア、頑張ったね」
リビングの片隅には骨壺が置かれてある。
声をかけてみても「ワン」という声が返ってこない。
今まであるのが当たり前だったものがすっぽりと抜け落ちてしまったのだ。
クレアはもう、ここにはいない――。
それを自覚した瞬間、私の目から涙がこぼれ落ちた。
翌日、編集とやりとりをするためにZOOMにアクセスした。
話題は次の作品の流れについて、だった。話を始めて三十分ほどした時、「先生、大丈夫ですか」
「何が?」
「言いづらいですけど、クレアちゃんが亡くなってから日も浅いですし……しばらくお休みされてもいいんですよ。その、あまり日は取れないですけど……」
「ありがとう」私は笑顔を作る。「暇だと余計思い出しちゃうから。このままでいいの。気持ちだけで十分」
それから一ヶ月が過ぎた。
「おはようクレア」
私はあの日以降、クレアの骨壺に話しかけるのを日課にしていた。もちろん、彼女の食事は忘れずに用意していた。彼女のために取り寄せていた高級ペットフードだ。今はスイカが旬だからそれも置いておく。そう言えば涎を垂らして床をグチャグチャにした事があったっけ……編集さんが床に置きっ放しにしたバッグに顔を突っ込んでいた事もあったなあ……。
そんな事を考えているとチャイムが鳴った。玄関に向かい、魚眼レンズを覗く。レンズの向こう側には母が立っていた。
私はため息をつくとドア越しに、
「何しに来たの?」
「近くまで来たから寄ったのよ。入れてちょうだい」
私は仕方なく解錠し、母を中に入れる。
「暑いわねー。あら」
そう言って母は家の中を見渡す。
「あんた、あの犬は?」
「……亡くなったわよ」
「ふうん」
ズカズカと家の中に入り込んできて、彼女は居間にある骨壺を見る。
「こういう犬ってどうするの?」
「どうするって」
「お墓よ、お墓」
「私が死んだら一緒のお墓に入れてもらうようお願いするわ」
彼女は顔をしかめて、
「じゃあ何、あんたと私とこの犬と、同じ墓に入らなきゃいけないわけ?」
「まあ、そうなるけど……」
「私は絶対嫌よ」
私は額に手を当てた。
「お母さん……」
「大体、あんな汚らわしい生き物、何で飼ってたの? 死んだんだったら次は結婚相手、ちゃんと探しなさい。長女がいい歳して少女小説で食べてる、しかも他者との付き合いが嫌だからド田舎のへんぴな土地に一人で暮らしてるなんて恥ずかしくて誰にも言えないのよ」
母の小言はそれから三十分ほど続いた。
母が去ると家の中に静寂が満ちあふれた。まるで台風が去った後のようだった。
――じゃあ何、あんたと私とこの犬と、同じ墓に入らなきゃいけないわけ?
――大体、あんな汚らわしい生き物、何で飼ってたの? 死んだんだったら次は結婚相手、ちゃんと探しなさい。長女がいい歳して少女小説で食べてる、しかも他者との付き合いが嫌だからド田舎のへんぴな土地に一人で暮らしてるなんて恥ずかしくて誰にも言えないのよ。
私はいてもたってもいられなくなった。クレアの骨壺に歩み寄るとそれを持ち上げ、両手で抱きしめる。
「クレア、ずっと一緒だよ。絶対だよ。私が守るからね」
そう言って骨壺に頬ずりする。
それから一週間後、母が死んだ。
私の家から帰る途中に事故を起こしたのだ。
警察の発表はこうだった。
・ガードレールが壊れていた事から、車は何らかの原因でハンドル操作を誤った。そして谷底深く落ちた。
・谷底はVの字になっており、車も、彼女の回収も困難だという。
葬儀に用意された棺に遺体はなく、斎場には生前の笑顔だけが飾られた。
久々に会う弟は憔悴した顔をしていた。
斎場に集まってくれた人々を前に私は語りかける。
「母は父と離婚したあと、女手一つで私たちを育ててくれて」
マイクを手に喋りながら、よくまあこんな嘘が次から次に出て来るものだと感心した。そうでなければ小説家などやっていけないのだけど。
「母は昔から心配性でした。事故で死んだ日も、フリーランスで稼ぐ私の事を心配してくれていました。お見合いの話とか持ってきてくれて……どうか皆さん、母が天国に行けるように祈ってください。本日はお集まり頂き、本当にありがとうございました」
火葬なしの葬儀はこうして終わりを告げた。
「クレア、おはよう!」
葬儀から一ヶ月が経過した。
私はいつものようにクレアの食事を用意する。スイカの旬は終わり、梨が旬になっていた。
チャイムが鳴る。
「こんにちはぁ、あの、依頼受けた業者の者なんですけど」
「あっ、今開けますね」
私はそう言って玄関の鍵を開ける。
家の周りは雑草が多く、それを刈り取ってもらうように依頼したのだ。「じゃあ、家の周りだけお願いします」
「わかりました」
業者の男が言う。
「それで……あの、電話で伺った内容の確認なんですが、庭の北側の隅っこ。あそこは本当にやらなくていいんですか、ついでにやっちゃいますけど……」
「ええ」
私はにっこりと微笑む。
「そこだけは草、生やしたままにしといてください」
「わかりました……」
男が怪訝そうな顔をしたまま外に出て行く。
やがて草刈り機のエンジン音が聞こえてきた。
私はその様子を窓から見守る。彼は私の指示通りに草刈りを行っている。
それから空を見上げて満面の笑みを浮かべる。
――じゃあ何、あんたと私とこの犬と、同じ墓に入らなきゃいけないわけ?
母の声が蘇る。
「よかったね、お母さん。これで満足でしょ」
了
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