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おせち料理

 おせち料理を作り始めたのは16歳の時だったから、もう40年近くも作り続けていることになる。途中何度かやらなかった年もあるが、30回以上は作ってきたのか…と思うと感慨深い。
 『料理』の語源は「はかりおさめる」とあるが、生来ガサツな私は、料理の時、材料や調味料を計るという習慣がない。故に私の料理は味が安定しない。それでも、年を重ねて「経験」で「食べられる範囲」には収まるようになってきた。
 私が料理を面白いと思うのは、多彩な調理方法の存在と加熱や組み合わせによって材料が化学変化するところだ。だから、若い時には まだ自分の知らない調理方法を求め、たくさんの料理本を読んだし、知らない食材を使ってみたかった。まだ、ネットのない時代だったので大きい市場に足を運んだりしていた。

 お正月料理は、そんな私の好奇心の実現の為に恰好の機会だった。
 私の好奇心に 父は寛大だった。「お前は進学しなかったから、その分の費用をやってみたいことに使えばいい」と言って本や調理器具や食材の費用を出してくれた。
 どこかで「習う」ということをすればよかったのかもしれないが、その頭は無かったので、完全に独学で好奇心のみに従って 在り得ない失敗を繰り返しながらあまり凹むことなくばく進した10代の私だった。

 20代になった私は、本業の陶工としての仕事と料理への興味が半々くらいで拮抗していた。というか、何かやらないと 日々の作業に忙殺され埋没してしまうことに窒息感を感じていたので、‟新作食器と料理の企画展”というのを提案してみた。
 とても素敵な思い付きだったけど、私は地獄を見る事になった。
 陶工としても、料理の腕前も、どちらも全く実力が不足していたからだ。
そんなことにも気づかないくらい 社会経験も不足していたのだろう。
 企画は採用され企画展は年2回のペースで確か15回まで続いたと思う。
1回の企画の準備に2か月かけていた。ほとんど毎回何かしら突発的な体調不良に見舞われた。ひどい胃腸炎、片頭痛の発作、立てないほどの眩暈と吐き気、ぎっくり腰や急性盲腸炎もあった。どれも、精神的に追い込まれたことで起きた発作症状で、企画展が終わると嘘のように症状が消えた。
 毎回、やったことのない料理に挑戦した。豆腐を作ったり、引き上げ湯葉をやったり、燻製器を自作してスモークサーモンをつくってみたり、手打ち蕎麦もやった。
 いつも、本当の初めてだったから、ゼロからのスタートで、2ヶ月の間に何度も試作を繰り返した。どうやったら完成するのかわからな過ぎて途方にくれた。「もうだめだ…」と何度も、いや 毎回追い詰められた。
 けれど、まったく光明のない闇の中でもがき続けていても、最後には出口に辿り着いた。どこをどう進んだのかわからないけど、「あ、ここだ」となって、すました顔で企画展当日を迎えることが出来た。

 今、こうして思い返してみると冷や汗が出る。当時の苦しさが蘇り息がつまりそうだ。けれど当時の私は そうしていなければ息が詰まってしまうのだった。無理を重ね限界のその先へ突っ込んで行き、いつの間にか仕事や料理を ‟埋没” から逃れるための ‟装置” として利用していたのだと思う。

30代は 蓄積した‟無理”の反作用が荒れ狂い、何一つ思う通りに事がはこばず、まったくの「お手上げ状態」で推移した。この時期に 私は結婚し子を授かり ‟仕事” から離れた。

40代になって 私はまた、家族と自分の興味の為だけに 料理をするようになった。そして食材の加熱時間が秒単位で食材の味に変化を与えている事、包丁の切れ味の違いが食材の味に影響を与える事、加塩のタイミングと僅かな量の違いで食味が変わること など、小さな大発見をするようになった。
 もう、無理は懲り懲りで、限界のその先に突っ込んで行かなくても、
‟世界” は十分に変化に富み、興味深い場所であることを知った。

そして、50代になった私の「おせち料理」は ド定番の内容だけれど、家族が三が日の間これだけを食べ続ける事が出来、3日目の夜に丁度食べきれる量を用意することが出来るようになった。娘時代、食べたことのないメニューを画策しながらも、「本来のおせち料理は 主婦が三が日の間台所に立たなくてもよいための料理」という言葉に おせち料理の本質を感じ、いつかはそういう料理が出来るようになりたいと願ったことが、ようやく出来るようになったのではないかと 密かに思っている。

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