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読書感想#37 【ヨハネス・エリウゲナ】「ヨハネ福音書序文説教」

 天翔ける福音史家、使徒ヨハネの声。それは物質の空気層やエーテル層を越えたり、可感的全世界の限界を越えて飛ぶのではありません。それは最も光り輝く高き観想の眼差しを持って、存在するものと存在しないものの全てを越え、一切の観想を超越するのです。


 存在するものは人間に知られずにはいられないものであり、また神よりも後のものであり、万物の唯一の原因によって造られたものとしての位置を決して越えることのないもののことであります。そして存在しないものとは、如何なる理解力も及ばないもののことであります。故に使徒ヨハネは、理解され語られ得るものを飛び越えるばかりでなく、あらゆる理解と表現を越えているものへと運ばれ、精神の言い表し難い飛翔によって万物を越え、万物の唯一の始原の秘密へ上げられるのです。

 この時、一なる本質と多なる実体とがありありと認識されることでしょう。それは決してそれ自体として見られることはなく、一は多に現象します。一はそれ自体として自らを現すことなくして、自らを現します。これは即ち、言葉と始原との自存を意味しているのです。

 言葉が時間的に生まれし人間となって下降して行き、永遠の発出として言葉が万物に先立ち、万物を越えて上昇して行く。かくして「はじめに言葉があった」といわれるのです。


 使徒ヨハネは、観想と知識の形象です。ヨハネは特に理解を表しています。しかし理解には実践、即ち信仰が必要です。信仰によって理解の参入が準備されるからです。もちろん信仰は出発点に過ぎません。しかし信仰あって初めて、理解を準備することが可能になるのです。そこからようやく私たちは理解の道を歩むことが出来るようになります。この時私たちは、眼に見えるものと眼に見えないものの全ての被造物を越え、全ての理解を洞察します。もはやそれは神化といって良いでしょう。


 しかし神化というのは、決して人間としての実体の消滅を意味しているのではありません。人間と神の本性が融合するというのではなく、それはあたかも空気が光に変わる如くなのです。普通、太陽に照らされた空気は、まるで光以外のなにものでもないと見えます。しかしそれは空気が自らの本性を失ったからではなく、光が空気を貫通したために、空気それ自体が光であると見えるからなのです。神化というも即ちこの如きでなければなりません。


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