読書感想#36 【(偽)ディオニシオス・アレオパギテース】「神名論」
神についての認識や観照は、それが例えどのようなものであったにしても、存在を越えた形で万物から隔たっているが故に、すべての存在者にとっては近づくべからざるものであります。しかもそれは探り難く、追跡し得ぬものであると同時に、神の無限の秘密に到達した者の足跡さえないほどなのです。ただ、かくいってそれは存在者にとって全く交わり得ぬものであるかというに、そういう訳ではありません。神は自分自身に留まったまま、存在者を基礎づける超越的光を、各存在者の分に応じた照明によって放射するのです。
超越的光には全ての認識の極みなるものが、絶対に表現できない形で予め存在しています。もちろんそれは思考され得ず、語られ得ず、いかなる意味でも観照され得ないものです。それはいわば思推や言語を越えたものだからです。思推を越えたものはもはや、如何なる思推によっても思推されません。言語を越えたものはもはや、如何なる言語によっても語られません。その光は万物から融絶され、絶対に知られ得ないものなのです。
超越的光は全ての本質的な知識と力の完全性とを、存在を越えた仕方で自らの中に全て同時に先取りしながら、他方ではその把握できぬ力によって、全ての知をも越えた所に位置しています。仮にもし、全ての認識は存在者の認識であり、存在者をその限界としているのならば、全ての存在を越えた光は、全ての認識をも隔絶していることになるからです。
全ての存在を越えた光は万物を包含し統合し先取りしながらも、自らは万物にとって全く理解し得ないものであり、それについてのいかなる感覚も、幻想も憶説も、名前も言葉も、理解も認識もありません。それはいわば、呼び求められることもなければ、名を越えたものとして示される、名のなきものなのです。
名のなきものは全ての名の上に置かれた無名なるものであり、この世において、また来るべき世において、名付けられる筈の全ての名を越えてあげられた、無名なるものです。しかし同時にその無名なるものは、最も多くの名を持つものでもあります。それは万物の原因であるが故に、その原因から生じた多くのものの名を持って讃えられるからです。善いもの、美しいもの、賢いもの、愛されるもの、神々のなかの神、主の主、聖の聖なるもの、永遠なるもの、存在者、生命の与え主、知恵、知性、言葉、力、救、正義。それは全てのものであり、そして如何なるものでないのです。
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