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夢見る小学校 完結編を見て感じたこと①

この記事では先日見に行ったオオタヴィン監督の「夢見る小学校 完結編」の感想を記述するので、内容を事前に知りたくない方は、実際に見てからこの記事を読んでください。

 この映画に出てくる子供たちはとてもイキイキしていて、これこそ「生きている」と感じた。これは日常生活の延長線、もしくはごく自然体に身体全体で”今この瞬間”を大切に味わっているような、ひとりひとりがキラキラ輝いているそんな素敵な”日常”があった。
 私たちが普段想像する小学校といえば先生がいて児童がいて、国語・算数・理科・社会の教科を教科書に沿って先生が一方的に教える。そして児童は一方的に教え込まれる/受けるだけなので子供たちが自発的に、自主的に学ぶことはなく、受動的に学んでいる。
 そしてなにかトラブルがあれば先生が動いて問題解決し、それを防ぐための予防マニュアルが徹底され、トラブルや非難が出ないような管理が徹底されている。いまではこのようなシステム化された管理教育が当たり前になっている。
 しかし現代ではその弊害として不登校の児童・生徒が40万に以上いると推定されており、年々増え続けていて、今の教育システム・管理教育システムに限界がきているサインでもある。
 また周りとなじめない、じっと座ってられないなどの”発達障害”とされる子供たちが増え続けていて、これも今の教育システムが今の子供たちに合っていないのではないかと思われる。

 はたしてこの管理教育は子供たちを大切にした教育だろうか?何のための教育だろうか?この教育が必ず将来に役立つのか?今の教育システムによって子供たちは楽しく学べているのか?子供たちのための教育になっているだろうか?
 私は少なくとも今の教育システムでは子供たちがノビノビ学べることはできず、「本来の子供らしさ」「人間らしさ」とは程遠く、自主性がなく、ただ言われたことに従うようなもので、とても子供たちのため、子供の将来を見据えた、子供のことを大切にした教育ではないと思う。
 むしろ子供たちを管理し、学校側が批判されない・非難されないようにマニュアルで守りを固め、それを順守するための規則にのっとて教育する”自分たちの保身のため”とも思えてならず、とても子供ファーストな教育ではない。

 舞台となった「きのくに子どもの村学園」の子供たちは規則やマニュアルもなく、時間割や先生という””概念”もなく、そこにあるのは自由な空間だ。子供たちの自主性を尊重し、周りの大人たちは先生ではなく、ガイド役、見守り部隊であり、子供の意思決定を尊重している。
 管理されたものがないため、こどもたちは目をひとりひとりがキラキラ輝かせながら、それぞれの好奇心に従ってそれぞれが学んでいく。
 この学校の一番の特徴は体験学習だ。教科書はなく、実体験を通じて自身の体を通して味わいながら学んでいく。実践の中では歴史も学ぶし、算数も必要だし、国語も必要だし、理科も学べるし、わざわざ教えなくても体験の中に複合的に国語・算数・理科・社会の要素が含まれており、実際に作る過程において自然と学ぶことになる。

 この生き生きとした表情や、その場面の様子は実際に映画を見てそれぞれが感じてほしいが、私は「これこそが本当の教育の在り方だし、これこそ子供を尊重して、イキイキ学べる秘訣」だと思う。子供たちがだれもがノビノビ学び、それぞれが生きている。まさに「生きるとはこういうことだ」と感じられた。
 作中には触れられていなかったが、ここには哲学の要素が含まれていて、それぞれが好奇心をもって探求することで、物事の原点を探っていき、柔軟に創意工夫しながら、作り上げている。実践しながら「なぜそうなるのか?」「これはどのようになっているのか?」それぞれが失敗しながら、探求していく。何度もトライアンドエラーができる環境だからこそ、熱心に集中してより良いものを作ることができる。
 これからは柔軟な思考で問題解決できる、規則に縛られない新しい創造性が求められる時代だからこそ、管理教育ではなく、実体験を通じて、一から作り上げていくような体験型学習に切り替えたほうがいいのではないか?
 柔軟な思考や、独特な創造性、問題解決能力は管理教育では身につかないため、子供を尊重した、子供たちの可能性、自主性を引き出す教育への切り替えが求められている。

 ただこれは「きのくに子どもの村学園」でしかできないのか?決してそんなことはない。
→続きは「夢見る小学校 完結編をみた感想の②」へ
ここではどのようにしたら夢物語ではなく、身近な取り組みとして行えるかを提案する。

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