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便りのない心配

メールのやり取りをしていた友人からしばらくメールが来ない。どうしたのだろうと心配になる。「6月に皆で会おう、その頃メールする」と言われていたのが、来ないので気になる。ラインのやりとりをしている他の友人も心配していた。若い時なら、忙しいのだろうなと静観していたのが、高齢者の仲間入りをするとそうはしていられない。やはり心配になる。

「便りのないのは良い便り」というのは、昔のことのように思える。多忙のため、便りを出す時間もない、無事だということだ。何か事故があれば、家族や友人に知らせてくる。だから便りのないのは無事だということなのだ。このことわざが当たり前のこととして考えられていた時代があったのだ。昔は、事故があれば、必ず友人知人に知らせてきた。

だが、今は、どうなのだろう。事故があっても他人に心配かけまいと知らせない。病気になれば、治療に精一杯でメールのやりとりどころではない。そんな心情はよくわかる。

急にカルチャーや定例会に来なくなったりする人がいると、「去るものは追わず」とばかり言ってはいられない、やはり気になる。「便りのないのは悪い便り」だと思う。しばらく便りがなかったら、急に訃報が来るのはいたたまれない。

今の風潮について、ついつい考えてしまう。不幸があっても、元気そうにしなければならないのか、不幸を知らせたところで、他人を巻き込むだけで、何も生まれないという考えが支配しているのか、元気なうちのつながりで、そうでなくなれば参加できない風潮があるのか等と、いろいろ考えてしまう。

6月にメールをすると言っていた友人が心配になり、こちらからメールした。すると早速返事が来て、故郷の生家の維持修理で忙しく、瞬く間に時が過ぎてしまったとのこと。とにかく無事に元気にやっていたと安心した。


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