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銀座の柳を歩く

1  啄木と銀座の柳

明治10年代に植えられた銀座の柳(1世柳)は、大正期の道路拡張と関東大震災で一時衰退した。この明治の柳を啄木は、こう歌った。

あさ風が 電車のなかに 吹き入れし 
柳のひと葉 手にとりて見る

啄木は、明治42年に京橋区にある朝日新聞社に入社し、校正係として勤務していた。明治45(1912)年に小石川の小石川区久堅町で死去した。「京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかな」の歌が旧朝日新聞社跡地(銀座6丁目並木通り)前の碑に刻まれている。

朝日新聞社跡地前(銀座6-6-7)にある啄木の碑

その後、銀座の柳を懐かしむ声に押され、昭和初年に復活(2世柳 長野県安曇野産)した。そして戦災。焼け跡から柳は芽生え、加えて昭和23年には植樹(3世柳)が行われた。高度成長期の銀座大通りの大改修により柳は日野市に移植され、銀座から消滅、昭和59年から日野市に残っていた柳を移植し、今に見る銀座の柳通りが復活した。銀座の柳は、かく栄枯盛衰を繰り返してきた。銀座の柳の碑が銀座八丁目にあり、近くには2世柳が植えられている。

銀座8丁目の2世柳

2 「東京行進曲」と「銀座の柳」

柳には水辺の風景が似合う。今の銀座には、かつての堀は見られないが、水位が高いせいか柳が適しているらしい。明治以降、何度か盛衰を繰り返した柳が銀座のあちこちで見られる。銀座の中央通りを歩いて、八丁目に来たら、銀座の柳の碑があり、「銀座の柳」という歌謡曲の楽譜が彫られていた。

小さかった頃に、伯母が「濡れてうれしい銀座の柳」と歌うのを父が「植えてうれしいだ」と注意したことを覚えている。その銀座の柳だが、大正の道路拡張により消え、さらに関東大震災が追い打ちをかけて、昭和に入ったころには、懐旧の情だけが残った。

かつての銀座の柳を懐かしむように「東京行進曲」は歌われた。銀座の柳を復活しようとする動きがこの歌でいっそう活発化した。
「東京行進曲」 歌い出しは、♫昔恋しい銀座の柳、昭和4年5月 (映画「東京行進曲」が昭和4年5月に公開) 作詞西條八十、作曲中山晋平、唄佐藤千夜子 
歌詞には、恋の丸ビル、浅草、地下鉄、シネマ、小田急、新宿、デパートなどが織り込まれ、近代化する当時の東京の風景が描かれている。丸ビルは大正12年竣工、関東大震災で被災した後に大正15年再度完成、銀座線は昭和2年に浅草ー上野間開通、小田原急行鉄道が小田急と略されて使われて流行語になった。新宿3丁目には大正12年に三越デパートが進出し、更に大正15年にほてい屋が開業した。「東京行進曲」にあるように、震災後に目まぐるしく発展する東京の姿が見られた。

その後、銀座に柳が植えられ、見事に柳は復活した。昭和7年3月に銀座柳復活祭開催。
「銀座の柳」 歌い出しは、♫植えてうれしい銀座の柳、昭和7年3月  作詞西條八十、作曲中山晋平、唄四谷文子

銀座8丁目の銀座柳の碑
外堀通りの銀座の柳

そんな都民に親しまれてきた銀座の柳が近くの公園にもあった。江戸川区の行船公園には、区と安曇野市との友好関係から銀座の柳3世が植えられている。時折この公園を散歩して英気をもらっている。平成庭園という日本庭園も整備されて、春夏秋冬の風景を楽しませてくれる。  

江戸川区行船公園の銀座の柳3世
「江戸川区と銀座の柳の由来」碑

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