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小説と、その他もろもろ

「自分にしかできないこと」って、インターネットに触れてるとホントに少ないことがわかる。世界中にいろんなものを作ってる人がいて、作られたものが美しかったりする。で、その中で「自分にしかできないこと」みたいなのを見つけられた人が有名になっていくのかな、みたいな感じ。

いやホントに。どんなに供給が乏しい二次創作とかもだいたい誰かが一回くらいやってるし、なんか本当にそういう「これはうちしかやってないんで」っていうの思い込みに過ぎないんだなって。

でも、「自分にしかできない」と「自分くらいしか敢えてやろうとか考えない」っていうのはまた別で、それが最近の悩みだったりする。

てか、最初は宇宙だってなんだってゼロから始まったわけだし、誰かが何か新しいことを始めて、それをみんなが真似するうちに火種みたいなものがドンドン広がっていくものなのかな、と思うんだけど、既に燃え尽きちゃったものはどうすんのさ、みたいなところは正直ある。ワンオクが歌詞でジャンルみたいなものは誰かが積んでそれをまたブッ壊して、っていうのの連続なんだよ、みたいなことを言っていたんだけど、実際ブッ壊すというよりは濃塩酸でもかけたの? みたいなドロドロした崩れ方をしていって、最後は何も残らないみたいなそういう表現の方が近い気がする。人は資源だから横に流れていったらそこに残らないんですよね。

『Sinkai Clubへようこそ』にも書いたみたいに、自分自身は2000年代のライトノベル(灼眼のシャナとか、ゼロの使い魔とか)をまだ若い頃にいっぱい読んでた。今も当時の作品の熱心なフォロワーかと言われるとそうでもないんだけど、やっぱり読んでいく中で自分の心に「種」みたいなものが撒かれていって、青い春が過ぎ夏が来て秋、みたいな時期にブワーッと芽生えたのもやっぱりその時撒かれた種だったわけで。

ご存知の方も多いとは思うんだけど、やっぱり今の主流はファンタジーとか異世界転生だったりして、2000年代前半の空気みたいなものは存在していたこと自体が嘘だったみたいに見えない。どこかにあるのかもしれないけど自分の視界からは全く見えない、みたいな感じだ。(思い返してみるとゼロの使い魔も異世界転生モノなんだけど)

視界が狭いって言ってしまえばそれまでなんだけど、そんなに背伸びしなくてもわかるくらいに立ち込めてる空気みたいなものが主流って呼ばれるものなんじゃないかなと思う。一時期のグラブルとか身の回りの人気がついたらみんなやってたし。

漫画とかアニメとかの流れは違うかもしれないけど、自分がやってるっていうか自分がこれ以外できないっていうのはやっぱり小説で。そうなるとやっぱりちょっと寂しいわけで。連載用の小説もポツポツ、というよりはもっとバチバチ構想練って実際に書いてるんだけど、「ホントにこんな感じだったかな」っていうのは常に心の中にあって。でも全部当時のやつ読み直すのも違うな、とは思っている。やっぱり心の中で美化されたものがあって、それを上手く美化されたまま表現できた方がいいじゃん、みたいなのはある。ただ真似するだけじゃリスペクトにすらもならないし。リスペクトのつもりで真似てるだけなんて正直ナンセンスだと思うし、自分はそんなもの読みたくない。でも結果的に好きな作品と同じ感じになっちゃう、みたいのはやっぱり個人の根幹に関わるアレだから仕方ないかもしれないし、意識して猿真似してないならいいんじゃない、みたいな思いもある。

なんでパシフィック・リムが面白かったってやっぱりリスペクトとオリジナリティだし、適度にオリジナリティを織り交ぜていくのがコツなのかな、みたいなのも思う。

なんか話が緩やかに脱線したから元に戻すけど、やっぱり自分くらいしか「現実世界で」「ちゃんと街が出てきて」「主人公がヒロインとか世界とかのためにメチャメチャ頑張る」みたいの今更書かないんじゃない? というのが目下の悩みだ。トレンドもクソもない。最低限ファンタジーですらない。完全に旬が過ぎ去ったジャンルで、何かやろうとしているのが自分で、我ながらかなり時代に乗り遅れてるなとは思うし、正直寂しい。

でも折角描きたいって思いがあるなら、やれるところまでやってみるかな、というのが最近思ったことです。連載小説はかなり頑張って書いているので、志之塚兄貴の都合も合わせて年明けくらいには連載できるかなと思ってます。

指が凍りついてきたので今日はここまで。

(三楼丸)

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